よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して4年目!

城と忍者と芭蕉の町 伊賀上野

伊賀上野城の高石垣

伊賀上野城の高石垣

梅雨が明けて以降、京都はとても暑いが、東海地方も同様だ。最高気温40℃を超える日も出てきた。そんな中、忍者と松尾芭蕉の町、三重県の伊賀上野に行ってみる。京都駅からは、JR奈良線で木津駅まで行き、大和路線に乗り換える。1駅先の終点加茂駅からは亀山駅行きの関西線が出ているのでそれに乗る。この路線は単線・非電化の部分もあるため、京都駅から伊賀上野駅までは約2時間かかる。伊賀上野駅からは、近鉄子会社の伊賀鉄道が出ていて、上野市駅までは5分ちょっと着く。

上野市駅のすぐ北側にあるのが上野公園で、公園のほぼ真ん中に伊賀上野城の天守閣がある。また公園内には、俳聖殿と芭蕉翁記念館もある。伊賀上野城の天守閣は、1612年慶長の地震で倒壊した。その後ずっと天守閣を持っていなかったが、昭和の時代になって地元の代議士川崎克が再建した。江戸期の城には、築城の名手といわれた藤堂高虎が関わっていたことで有名だ。HPには、次の2つの文章が紹介されている。

『虎の城』(火坂雅志 祥伝社刊)

 高虎はおのれの持っている築城術のすべてをこの城に投入した。・・・この筒井氏時代の旧城を、高虎は新たに規模を三倍に拡大して縄張りした。本丸を西に向かってぐいと迫り出させ、幅十五間(約二十七メートル)の水壕を掘り、その内側に、高さ十七間(約三十一メートル)という日本一の高石垣を築き上げた。いま伊賀上野城の城跡をたずねてみると、急勾配にそそり立つ高石垣の存在感位圧倒されるばかりである。(作品本文より)

甲賀と伊賀のみち『街道をゆく』(司馬遼太郎)

 伊賀上野城は戦国時代末期の城である。・・・徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻める計画をたてたとき、万一敗北した場合の手当もしておいた。その場合、嫡子の秀忠を近江の彦根城まで交代させ、自分はこの伊賀上野城まで後退して、攻撃再開の準備をするつもりだった。その秘策も藤堂高虎にあかし、高虎をして堅固な城をつくらせた。・・・高虎は、信頼されたことをよろこび、五層の天守閣という、伊賀のような小国には大きすぎるものをつくった。(作品本文より)

藤堂高虎については、安倍龍太郎さんも「下天を謀る」で書いている。

(家康は大坂豊臣家との戦いに備えて、1608年藤堂高虎を伊予国から伊勢国安濃津と伊賀国に配置替えした)
津に荷揚げした兵糧をここ(伊賀上野城の長倉)にたくわえ、木津川水運をもちいて大坂に送る

高虎の修築の目的は、この城を西(大坂方)から攻めて来る敵にそなえてきずき直すことだった。城の西側に高さ約二十七メートル、幅約三百六十メートルの高石垣をきずいて本丸とし、五層の天守閣を建てて西方ににらみを利かせることにした。

帰りは、行きとは違うルートで京都に向かってみる。JR伊賀上野駅から関西線で柘植(つげ)駅に行く。ここは草津線の始発駅だ。そして終点草津駅まで行き、草津駅から東海道線で京都駅まで戻る。この経路も乗り換えを待つ時間が結構かかるため、約2時間を要した。今回たどった「京→山城→大和→伊賀→甲賀→近江→京」というルートは、今はディーゼル車が山間部縫って走る区間が長いが、昔からしっかり繋がる道があった。そんなことを実感できるルートだった。

酷暑の中高石垣を見上げる

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 伊賀上野城(易)

美濃と尾張の城巡り

 

国宝犬山城 ライトアップ

国宝犬山城 ライトアップ

梅雨が明けた。岐阜愛知の城巡りの旅に出てみる。最初の目的地は岐阜県大垣市だ。京都駅から大垣駅までは、名古屋駅まで新幹線で行って大垣駅まで戻るのが一般的かもしれないが、探してみると大阪と高山を結ぶ特急ひだに乗る経路も見つかった。大垣駅までの途中停車駅は、草津駅、米原駅の2駅だけで、約75分で着く。特急ひだの車両「HC85系気動車」は、ディーゼルエンジンで発電を行い、そこで得た電気や制動時にバッテリーに貯めた電気でエンジンを動かすハイブリッド車両らしい。だからなのか2両編成だった。

大垣駅からは徒歩5分の大垣城を目指すが、駅前から伸びる通りを歩いていてもなかなか城が見つからない。かつては関ヶ原の戦いで石田三成の本拠地となり、太平洋戦争で焼失するまでは国宝天守が残っていた大垣城も、現在では昭和になって再建された天守のみとなっており、堀もほとんどが埋められている。地図を頼りに何とかたどり着いた。

次は墨俣一夜城に向かう。大垣駅まで戻り、路線バスに乗って20分、バス停から徒歩10分で着く。もちろんここに一夜城は残っていない。平成になって観光施設ができている。1566年に美濃攻略を目指す信長が、その最前線の拠点として秀吉に築城を命じたのが墨俣一夜城だ。この任務を成功させた秀吉、ここから立身出世物語がスタートする。現地に来てみると、墨俣は長良川を挟んで美濃と尾張の国境であった。と同時に、東海道と中山道を結ぶ美濃路の宿場町でもあった。そして周辺は大中小の川筋が走る低湿地形であった。木曽川の上流から切り出した木材を犬山城周辺に集め、材木に加工して、複雑な川筋を利用して一気に墨俣まで運んだ秀吉と秀長の叡智が光る。

墨俣は大垣市だが、隣の岐阜市にある岐阜駅まで行く路線バスがここを始発に出ている。墨俣からは長良大橋を渡って約30分だ。岐阜駅で東海道本線に乗り清洲駅まで22分、清洲駅から歩いて15分で、次の目的地である清洲城に着く。

清洲城の歴史は、1405年の尾張国守護であった斯波義重(しばよししげ)に遡るらしいが、1555年に織田信長が清洲城に入って以降、約10年間居城としていた。1560年の桶狭間の戦いも清洲城から出陣した。1582年の本能寺の変で信長が討たれると、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人がこの城に集まり、織田家の家督相続を決める清洲会議を開いた。信長の孫織田秀信(三法師)が家督を継いだが、三法師の後ろ盾となった秀吉がこの後天下人として頭角を現してくる。1600年の関ヶ原の戦いが終わると家康が天下人になるが、1610年に家康が清洲城の廃城と名古屋城の築城を命令したことで、尾張の中心都市が清州から名古屋へ移転することになった。この出来事を「清洲越し」というそうだ。

清洲城からは、名鉄の新清洲駅まで歩く。名鉄名古屋本線と名鉄犬山線を乗り継ぎ、犬山駅までは約45分、1日目は犬山で泊まる。

2日目は現存する最古の天守が残る国宝犬山城を訪ねる。1537年に織田信長の叔父、織田信康が築いた。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」と呼ばれる。天守閣からは、名古屋駅周辺も岐阜駅周辺もよく見渡せる。木曽川を挟んで向こう岸は美濃国だ。犬山城も尾張国の最前線として、そして木曽川の水運の要衝として、重要な拠点であったことは間違いない。城を見た後は、城山を下りた所にある日本庭園有楽苑(うらくえん)を訪ねる。ここには信長の実弟である織田有楽斎が京都建仁寺に創った国宝茶室「如庵」が移築されている。

犬山の後は、愛知県長久手市にあるトヨタ博物館まで、鉄道乗り継ぎ旅をしてみる。岐阜県をぐるっと大回りして、愛知県に入って行く。この辺りの鉄道網の発達には驚いた。①愛知県犬山市の犬山遊園駅から名鉄で岐阜県各務原市の新鵜沼駅まで1駅乗る。②新鵜沼駅と繋がっているJR鵜沼駅から、高山本線で岐阜県美濃加茂市の美濃太田駅まで行く。③太多線に乗り換え岐阜県多治見市の多治見駅まで行く。ここは大きい駅だった。④中央本線に乗り換え、愛知県春日井市の高蔵寺駅まで行く。⑤高蔵寺駅で愛知環状鉄道に乗り換え、八草駅に行く。⑥ここからリニモに乗り換え、ジブリランドの次の駅の芸大通駅で下車する。そして徒歩10分でトヨタ博物館に到着する。ここは、T型フォードを皮切りを、往年の名車が展示してある天国のような所だった。帰りは、リニモと地下鉄を乗り継ぎ名古屋駅まで行って、新幹線で京都に戻る。

梅雨明けや美濃と尾張の城巡り

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 大垣城(易)
  • 墨俣一夜城(易)
  • 清洲城(易)
  • 犬山城(易)
  • トヨタ博物館(易)

相模湾を臨む熱海MOA美術館

ムアスクエア

ムアスクエア

東京に行く用事があったので、熱海に前泊することにする。京都駅から熱海駅までは、のぞみ号ほど便数はないが、ひかり号に乗れば約2時間だ。今回は、MOA美術館に行ってみる。熱海駅から美術館までは1時間に4本、路線バスが出ている。熱海駅のコインロッカーはいっぱいだったので、荷物を持って乗る。美術館まで10分はかからない。美術館にももちろんコインロッカーはある。HP解説は次の通り。

MOA美術館は昭和57(1982)年に開館し、36年が経過した平成28(2016)年から平成29年(2017)にかけ、展示空間の刷新と設備の更新を目的として、改修工事を実施いたしました。ロビーエリア、展示スペースの設計は、世界を舞台に活躍する現代美術作家 杉本博司氏が建築家 榊田倫之氏と共に主宰する「新素材研究所」が手掛けました。

今回の展示は「広重 東海道五十三次 版画✖️PHOTO」だった。

江戸時代、浮世絵版画は現代におけるSNS等にも相当する情報メディアとしての役割を担っていました。中でも、旅の情景を生き生きと伝えた代表作が、歌川広重(1797–1858)による保永堂版「東海道五十三次」です。江戸時代後期に高まった旅行ブームを背景に大きな人気を博し、広重の出世作となりました。

本シリーズは、江戸日本橋から京都に至る東海道の旅情を、四季の移ろい、天候や時刻の変化とともに描き出し、臨場感あふれる風景表現を特徴とします。街道風景については広重の実際の見聞や先行して出版された資料等に基づき描写する一方、「箱根 湖水図」にみられる切り立つ山容や、「蒲原 夜之雪」に代表される幻想的な雪景色には、現実を離れた広重ならではの創造力も随所に発揮されています。

本展では、「東海道五十三次」全55作品を一挙公開するとともに、東海道の宿駅の現在の風景を撮影・比較展示し、現代の東海道の旅もご紹介します。また、高精細デジタル画像で撮影した「東海道五十三次」を、当館スタッフの技術により、オリジナル・フィルム・プロジェクションとして、大画面に投影します。江戸庶民の旅への憧れをかきたて、現代においても多くの人々に愛好される本シリーズを、現代の東海道の姿とを重ね合わせながらご鑑賞ください。

趣向を凝らした展示も面白かった。北斎もいいが、広重もいい。そして、この美術館は展示と同等に建物自体が素晴らしい。建物自体は1982年開館と古くなっているが、上手にリノベーションされている。円形ホールの万華鏡、復元された黄金の茶室と光琳屋敷など見どころも多い。レストランも複数ある他、相模湾を一望できるカフェでのんびりと過ごせる。そして今回は公開期間ではなかったので見ることはできなかったが、尾形光琳晩年の代表作である「紅白梅図屏風」はここMOA美術館が所蔵する。モデルになったといわれている樹は下鴨神社にある。

下鴨神社にある光琳の梅 - よそもんが京都で暮らす

路線バスで熱海駅まで戻り、今夜の宿に向かう。

梅雨曇り相模湾見る露天風呂

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • MOA美術館(易)

坂の上の雲と道後温泉

道後温泉伊佐爾波神社から見る松山城

道後温泉伊佐爾波神社から見る松山城

前回投稿の続き。

しまなみ海道の瀬戸田港 - よそもんが京都で暮らす

2日目は愛媛県松山市に向かう。旅館の女将に車で瀬戸田BSまで送ってもらう。そして昨日来たのとと同じ松山市駅行きの高速バスに乗る。生口島から多々羅大橋を越えると愛媛県に入る。今治からは西になる松山に直接向かう高速道路がないため、一旦東の小松・西条方面に向かう。約100分で松山市駅に到着する。愛媛県(伊予国)は、江戸時代には「伊予八藩」といわれるように8つの藩に分かれていた。地形の複雑さなどのためだといわれる。

松山市駅からは大街道駅までは路面電車に乗る。司馬遼太郎が小説「坂の上の雲」で取り上げた秋山兄弟の生誕地を見学してから、松山城ロープウェイで江戸時代の天守が残る松山城に登る。ロープウェイを降りて天守までは難攻な道のりが続く。大きい城だ。HP解説は次の通り。

松山城の創設者は加藤嘉明です。関ヶ原の戦いの功により20万石の大名となった嘉明は、それまで居城としていた正木城(愛媛県松前町)では手狭になったと考え、松山平野の中央に位置する勝山に新たに城を築くこととし、慶長7年(1602)1月に築城を開始しました。慶長8年(1603)にそれまで「勝山」と呼ばれていた地名を「松山」と命名。築城工事は約四半世紀も続きましたが、寛永4年(1627)、城郭が未完成のまま嘉明は会津40万石に転封となりました。

代わって出羽上山から入封した蒲生忠知が築城を完成させましたが、寛永11年(1634)、参勤交代の途中に急死し蒲生家は断絶となりました。その後大洲藩主の加藤泰興らの在番を経て、翌12年、徳川家康の甥にあたる松平定行が伊勢桑名から15万石で入封し、以来14代世襲して明治維新に至りました。

天守は寛永19年(1642)に三重に改築されたと伝わりますが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したため、文政3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に落成しました。この時の天守が現存しています。

再びロープウェイで大街道に戻って、安藤忠雄建築の坂の上の雲ミュージアムを訪ねる。そして隣に建つ旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が別邸として建設した萬翠楼(ばんすいろう)の敷地内にある喫茶店愛松亭で一服する。ここは夏目漱石が松山中学に赴任していた時、下宿していた愛松亭があった場所らしい。

大街道駅から路面電車に乗って10分ちょっと、今夜の宿がある道後温泉に到着する。夕食後、道後温泉本館に行ってみる。かなりの混雑でのんびりと湯船に浸かっていることはできないが、入浴体験としては有りかと思う。

3日目は、朝食前に一遍上人生誕地と伊佐爾波神社を散歩する。少し蒸し暑かったので旅館の朝湯でさっぱりする。チェックアウトした後は、松山市立子規記念博物館に行ってみる。展示の中にあったパネルの一節が次の通り。その通りだと思う。

明治維新の改革を成就したものは二十歳前後の田舎の青年であって幕府の老人ではなかった。・・・・・・俳句界の改良せられたのも同じく後進の青年の力であって昔風の宗匠はむしろその進歩を妨げようとしたことはあったけれど少しもこれに力を与えたことはない。何事によらず革命または改良ということは必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であって、従来世の中に立っておったところの老人が中途で説を翻したために革命または改良が行われたということはほとんどその例がない。
(子規「病牀(びょうしょう)六尺」明治三十五年六月十八日)

道後温泉駅からJR松山駅までは路面電車で約20分で着く。松山駅は再開発の真っ最中だが、難航しているようだ。特急しおかぜに乗ると瀬戸大橋を渡って岡山駅まで行ける。予讃線の大半の区間は単線のため、特急とはいえすれ違い待ちも多い。そして結構揺れた。岡山駅からは新幹線に乗って京都に戻る。

浴衣着て白鷺の湯の街歩き

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 秋山兄弟生誕地(易)
  • 松山城(易)
  • 坂の上の雲ミュージアム(易)
  • 道後温泉本館(易)
  • 一遍上人生誕地(易)
  • 伊佐爾波神社(易)
  • 松山市立子規記念博物館(易)

しまなみ海道の瀬戸田港

向上寺国宝三重塔と瀬戸田港

向上寺国宝三重塔と瀬戸田港

5月の最終週、2泊3日の旅行に出る。最初の目的地は、しまなみ海道生口島の瀬戸田港だ。京都駅から新幹線で福山駅まで75分、福山駅から愛媛県松山行きの高速バスに乗る。瀬戸田BS(バスストップ)までは約60分だ。瀬戸田BSで路線バスを待ち、約30分で瀬戸田港に着く。

今日泊まる旅館に荷物を置いた後、向上寺に行く。瀬戸田港からは歩いてすぐの距離だが、ちょっとした山登り。国宝三重塔から見る瀬戸内の景色が素晴らしい。山を下りて、平山郁夫美術館まで歩く。HP解説にある通り、ここは平山郁夫さんが生まれた所だ。

平山郁夫は、昭和5年(1930)に瀬戸田町で生まれ、瀬戸内の青い海や緑の島々の織り成す豊かな自然の中で少年期を過ごしました。生涯を通じて「私の原点は瀬戸内海の
風土である」と語っていたその場所で、平山芸術の原風景を発見していただければ幸いと存じます。

この美術館は、平山郁夫さんのスケッチをメインに展示してある。子どもの頃から、抜群に絵が上手だったことが分かる。平山郁夫さんは中学生の時に、広島市の勤労動員先でB29の原爆投下を目撃したそうだ。以下、閃光という文章がB29のスケッチと一緒に展示されていた。

何を思ったのか、自分一人だけは外に出てきれいに晴れた空を眺めていた。と、白い飛行機雲を引っ張ったB29が、スーツと上空に入ってきた。警報も出ないしサイレンもない。そして、頭上はるか高いところでパッパッと落下傘が開いた。一体何だろう。「抵抗をやめよ」という前にもまかれた宣伝のビラだろうか。ピラなら木の葉のようにひらひらと舞うはずなのに、純白の落下傘は、きらきら輝きながら静かに降りてくるだけだ。「へんなものが落ちてくるぞー」叫びながら、仲間のいる小屋の中に入ったのと同時だった。目の前でマグネシウムのフラッシュをたかれたようにパーツと明るくなった。板ばりの相末な小屋が、大光に包まれた。

瀬戸田港から平山郁夫美術館に至る道は「しおまち商店街」となっている。コロナ禍後、この商店街に島外資本が進出してきて宿泊施設や飲食施設を開いたので、たくさんの観光客やサイクリストが訪れるようになった、と泊まった旅館の女将が言っていた。因みに、瀬戸田港に来る公共交通機関を使ったメインルートは、三原と尾道から来るフェリーになるため、日帰り客も多いそうだ。

サイクリスト走る真風(まぜ)の瀬戸田港

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 平山郁夫美術館(易)
  • 向上寺(中)

柳生に向かう山の中にある円成寺

 

円成寺国宝春日堂と白山堂 赤と緑の対比が絶妙だったのでカラー画像で

円成寺国宝春日堂と白山堂 赤と緑の対比が絶妙だったのでカラー画像で

ゴールデンウイークは、運慶が初期に造った仏像、大日如来坐像がある忍辱山円成寺(にんにくせん えんじょうじ)に行く。円成寺は奈良市内から柳生の里に抜ける道沿いにある。実は去年の紅葉の季節に行こうと思ったが、クマ出没のニュースで断念した経緯がある。京都駅からはJRで奈良駅まで約1時間、バスに乗り換えて35分で到着するのだが、奈良交通のバス便が、朝1本、昼1本、夕方1本と極めて少ないので、発車時間には要注意だ。

円成寺HPの解説は次の通り。

創建については諸説あります。当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。

天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始めるに及び当山の基礎が築かれました。

平安時代から次の鎌倉時代にかけて多くの堂宇や尊像が造顕されてきましたが、文正元年(1466)、応仁の兵火により、堂宇の大半を失います。しかし、当山子院知恩院院主・栄弘阿闍梨を中心に、直ちに復興造営が開始され、栄弘が没した文明19年(1487)には、14の堂宇が復興されました。

江戸時代には、将軍の殊遇を受け、当初130石でしたが、応仁の兵火復興の過程で請来された「高麗版大蔵経」(現・東京、増上寺蔵)献上の恩賞として105石が加増、寺領235石、山内23寺をもつ一大霊場となりました。

幕末の動乱と維新の神仏分離以降は、寺領の返上と社会風潮の一変で衰退の一路をたどり、明治10年(1877)には、本堂、楼門、護摩堂、観音堂、鎮守三社を残すのみとなりました。明治15年(1882)、盛雅和尚の晋山以降、楼門、本堂の大修理と本坊、脇門の移建が行われ、県道の整備もあり、ようやく残った伽藍の保持がなされ、次の霊瑞和尚、先代賢住和尚の時代に主要堂宇のほとんどが改修、多宝塔も再建、浄土庭園などの境内地も整備され、今日の姿が整いました。

国宝大日如来坐像についてのHP解説は次の通り。

台座内墨書から鎌倉新様式を切り開いた、運慶の最初期の作と知れる記念碑的仏像。若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。 大日如来は密教における根本仏。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」の意味をもち、如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着け、一種の王者の姿をとっています。 運慶の生年は不明ですが、造像は20歳代と推定されています。

また、大日如来坐像の造形についてはここに詳しい。

未来へ受け継がれる文化財~二体の大日如来~|祈りの回廊 2019年春夏版|掲載コラム|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳]

山間にある円成寺は観光地化されていないので、境内は草木の手入れの行き届いていない所もあった。しかし参拝者が少ない分、本堂の阿弥陀如来像と宝物館に移された国宝大日如来坐像をじっくり堪能できた。

帰りのバスの時間を待って、行きと反対のルートで奈良市内まで戻る。行きに乗ってきたバスは柳生を抜けて、月ヶ瀬温泉まで行くので、そこで三重交通のバスに乗り換えて、伊賀上野市に向かうバスルートもある。しかしこちらの便数も少ないので今回は諦める。

まだ午後も早い時間だったので、近鉄奈良駅から学園前駅まで電車で行き、駅前からバスに乗り、写真家の井上博道記念館に行ってみる。井上博道さんの略歴は次の通り。

井上博道の世界

昭和6年(1931)、兵庫県香住の禅寺に生まれる。龍谷大学在学中に西本願寺詰めの産経新聞記者の司馬遼太郎と出会う。それがきっかけとなり、卒業後、産経新聞大阪本社に入社。編集局写真部に配属される。昭和41年(1966)フリーカメラマンとして独立し、撮影・創作活動に専念。平成24年(2012)、不慮の事故により81歳で逝去。

こちらも観光地ではないので、産経新聞社時代に司馬遼太郎さんと一緒にした仕事「美の脇役」写真展をじっくりと見られた。住居をリノベーションしたギャラリー兼カフェ兼レストランがとにかく凝っていて、素敵な空間で美味しいコーヒーをいただいた。

新緑の山寺運慶の技光る

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 円成寺(中)
  • 井上博道記念館(易)

秀吉が造った長浜の町

 

竹生島宝厳寺 国宝唐門

竹生島宝厳寺 国宝唐門

真夏の猛暑が来る前にいろいろと出かけておきたい…ということで、琵琶湖に浮かぶ竹生(ちくぶ)島に初めて行ってみる。京都からはJR湖西線で近江今津駅まで1時間。途中で一度、特急サンダーバードに抜かされる。駅から歩いてすぐの今津港まで行き、予約していたクルーズ船に乗る。今回は、今津港→竹生島→長浜港というコースを申し込んだ。乗船料は3600円。今津港を出発し、竹生島までは25分の船旅となる。

竹生島での自由時間は70分だ。竹生島宝厳寺HPの解説は次の通り。

神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。

行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。

当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。

そして、豊国廟より移築された国宝唐門の解説は次の通り。元々は大阪城の極楽門であったとされる。

『唐門』とは、唐破風をもつ門という意味です。この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものです。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。

文献としては、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に、大坂城の極楽橋が豊国神社に移築された旨の記述があり、また、豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 にて、豊国極楽門を竹生島に寄進したとの記述を残しています。この二つの文献の記述により、大坂城の極楽橋が竹生島宝厳寺に移築されたことは間違いないでしょう。さらに平成18年、オーストリアにあるエッゲンベルグ城にて『大坂城図屏風』が発見されました。その絵中には『極楽門』の前身であったと伝えられている大坂城の本丸北方に架けられていた『極楽橋』の姿が描かれており、その絵図から判断して、『唐門』こそが、秀吉が建てた幻の大坂城の唯一の遺構であろうと昨今注目を集めています。

港から宝厳寺本堂までは急峻な石階段の登りが続く。距離は大したことはないが、勾配がきつかった。竹生島からまた船に乗り35分、琵琶湖東岸の長浜港に到着する。長浜港の側には長浜城趾豊公園がある。長浜の歴史については、名古屋刀剣博物館の説明が分かりやすい。

豊臣兄弟ゆかりの城・長浜城とは/名古屋刀剣博物館・名古屋刀剣ワールド

「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)とは、1573年(天正元年)に、豊臣秀吉が新しく築いた城のことです。豊臣秀吉にとって、はじめての持ち城で、出世城とも呼ばれています。

長浜城のある北近江国(きたおうみのくに:現在の滋賀県長浜市、米原市、彦根市周辺)は、もともとが浅井長政の領地でした。しかし、浅井長政は、義兄・織田信長と対立。1570年(元亀元年)に「姉川の戦い」が起こり、浅井長政・朝倉義景連合軍は、織田信長・徳川家康連合軍に敗北してしまうのです。浅井長政は、居城「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県長浜市)へと逃げ帰りましたが、小谷城は織田信長軍が包囲。織田信長軍の豊臣秀吉に降伏を勧められましたが、1573年(天正元年)、浅井長政は自害し、浅井氏は滅亡しました。

なお、朝倉義景も自害して朝倉氏も滅亡。この一連の戦功により、豊臣秀吉は、織田信長から浅井氏の旧領のうち、120,000石を拝領したのです。豊臣秀吉は「今浜」と呼ばれていた土地を、織田信長の名前から一字取って「長浜」と改め、長浜城を新築し、城下町を形成。なお、浅井長政が居城とした小谷城は廃城とし、小谷城を解体した資材が長浜城の築城に用いられました。

ところが、1582年(天正10年)に「本能寺の変」が勃発し、織田信長が死去。「清洲会議」による話し合いで、長浜城は「柴田勝家」(しばたかついえ)に譲り渡すことになります。しかし、豊臣秀吉と柴田勝家は対立し、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)となるのです。その結果、豊臣秀吉が勝利。豊臣秀吉は、長浜城を取り返し、「山内一豊」(やまのうちかずとよ)に与えます。その後「内藤信成」(ないとうのぶなり)、「内藤信正」(ないとうのぶまさ)親子が入城しましたが、1615年(元和元年)に廃城となりました。

なお、長浜城は解体されて、「彦根城」(ひこねじょう:現在の滋賀県彦根市)に移築。また、大手門(おおてもん:正門)は長浜市内の「長浜別院大通寺」(ながはまべついんだいつうじ)の台所門に、搦手門(からめてもん:うらもん)は同市内の「知善院」(ちぜんいん)の表門として移築され、現存しています。

城址公園からJR長浜駅を通って旧市街地の黒壁スクエアに向かう。食べ歩きが楽しめる観光地になっている。この周辺では、4/14と4/15に春の例大祭「長浜曳山まつり」があったばかりの長浜八幡宮と旧長浜城の大手門が移設された大通寺を訪ねる。地酒と鯖棒鮨を買って京都に戻る。長浜駅から京都駅まではJRの直通電車があり75分で到着する。

春霞琵琶湖に浮かぶひょうたん島

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 竹生島宝厳寺(易)
  • 長浜城趾(易)
  • 長浜八幡宮(易)
  • 大通寺(易)