よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して2年目突入!

床みどりが有名な岩倉の門跡寺院

新緑が眩しい実相院門跡の庭

新緑が眩しい実相院門跡の庭

新緑の時季、叡山電鉄鞍馬線「岩倉」駅からのんびり歩いて20分の実相院門跡に「床みどり」(撮影は不可)を見に行った。

実相院門跡は、鎌倉時代の寛喜元年(1229)に近衛基通の孫である静基(じょうき)僧正が京都・紫野に開いた。その後、京都御所の近くに移ったが、応仁の乱を避けるために、文明6年(1474)に現在の岩倉の地に移転した。

第112代霊元天皇の養子であった義周(ぎしゅう)法親王門主となった享保6年(1721)、京都御所から大宮御所「承秋門院(じょうしゅうもんいん)の旧宮殿」の一部が下賜された。それらが現存する「四脚門」「御車寄」「客殿」となっている。

 

比叡山をのぞむ庭園「こころのお庭」

比叡山をのぞむ庭園「こころのお庭」

この庭は、庭師の小川勝章氏が監修し、2014年に一般市民も参加して作庭されたそうだ。

すぐ近くには、岩倉具視(いわくらともみ)幽棲旧宅がある。孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と徳川第14代将軍の徳川家茂(いえもち)との婚姻を推進したことから佐幕派と見なされ、過激な尊攘派に命を狙われた岩倉具視が、文久2年(1862)から慶応3年(1867)までの間、ここに幽棲していた。後に冤罪が証明された岩倉具視は、時代の動きに対応して、これまでの公武合体派から倒幕派へと立場を変えて、明治新政府の重要人物になっていく。

ゴールデンウィークでも、この辺りは観光客が比較的少なく、とてものどかなところ。濃くなってきた緑と美味しい空気を楽しめた。

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 実相院門跡(易)
  • 岩倉具視幽棲旧宅(易)

古田織部ゆかりの興聖寺

本堂は青もみじの中にあるようだ

本堂は青もみじの中にあるようだ

堀川寺之内にある古田織部ゆかりの寺、興聖寺の特別拝観(3/30〜5/6)に行ってきた。興聖寺は、慶長8年(1603)に、古田織部によって開かれた臨済宗の寺。

古田織部の人物像については、北大路にある古田織部博物館のHPにある。

武将茶人 古田織部(1543〜1615)
 茶の湯の最盛期であった天正19年(1591)、堺の一茶人から天下人豊臣秀吉の側近にまで登り詰めた千利休は、秀吉に切腹させられて世を去った。秀吉のもと、利休が天下一の茶人として活動したのは9年ほどであった。その後の豊臣家滅亡までの25年間、天下の茶の湯を継承発展させたのは、利休の弟子の古田織部であった。

 織部は創意に優れた尾張出身の武将茶人で、青年期より長岡藤孝(幽斎)らの文化人から薫陶を受けた弁舌巧みな人物である。利休亡き後、秀吉と織部による茶の湯は、実に8年もの間続き、現在行われている「茶の湯」は、利休と織部二人によって大成されたといっても過言ではない。

 秀吉没後、豊臣政権が大老筆頭の徳川家康によって簒奪されたように、利休の茶の湯も家康・秀忠に重く遇された織部によって発展改変され、「将軍秀忠の茶の湯の師」という権威を背景に、織部茶の湯が一世を風靡した。それは、「へうげもの」「やきそこない」といわれた茶碗が茶席を賑わすという常軌を逸した茶の湯が、〝天下〟に認められたことを示すのである。この事象は、時代がそうさせたのではなく、織部の強烈な個性により、一時的にそうなったのである。織部の成し遂げた事績はまさに破格であった。

 織部没後、弟子の小堀遠州が、織部武家茶の湯を受け継いだ。また、同じく弟子であった本阿弥光悦は、織部の美意識に触発されて、独自の芸術を開花させた。また、金森宗和は織部流の茶を学んで自らの茶境を開拓し、その茶風は公家の間に伝わった。

街中にあるそれほど大きくないお寺だが、門をくぐると本堂までは青もみじ一色になる。本堂横にある方丈と茶室に入ると、そこにはとても静かで美しい空間がある。普通は、観光客向けに“古田織部のお寺”であることを前面に押し出すものだが、ここでは全くそれをしていなかった。むしろ、興聖寺全体の持つ静謐な空間作りに、古田織部を感じてもらいたいように感じた。

□公共交通機関使用による訪問難易度

青葉が輝く黄檗宗浄住寺

珍しい黄檗宗のお寺

珍しい黄檗宗のお寺

西芳寺苔寺)の近くにある浄住寺が春の特別拝観(4/27〜5/6)をしていたので行ってきた。阪急上桂駅から歩いて10分ほどのところにある。

浄住寺は、平安時代弘仁元年 (810)、52代嵯峨天皇(50代桓武天皇の子)の勅願寺として第3世天台座主の慈覚大師円仁(えんにん)によって開かれたが、鎌倉時代の弘長年間 (1261~1263)に、公家の葉室定嗣(はむろさだつぐ)が奈良西大寺叡尊(えいそん)を招いて、真言律宗の寺院として再興する。

その後、度重なる兵火により荒廃していたが、江戸時代の元禄2年 (1689) に、黄檗宗の僧である鉄牛道機(てつぎゅうどうき)を開山としてからは黄檗宗の寺院となって現在に至っている。現存する本堂などは江戸時代(1689〜1700)に建てられたものだ。

大伽藍を持つ宇治黄檗萬福寺

jini3.hatenablog.com

とは比べものにならないほど小さなお寺だが、入り口から本堂に至る参道の石階段の両側は、この時季、青もみじと竹林がとても美しかった。水戸黄門の杖にもなった亀甲竹の林も珍しかった。

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 浄住寺(易)

 

京博で雪舟を観る

1897年に帝都京都博物館として開館した京都国立博物館

1897年に帝都京都博物館として開館した京都国立博物館

東山七条にある京都国立博物館で開催中の特別展『雪舟伝説「画聖(カリスマ)」の誕生』(4/13〜5/26)に行ってきた。山本兼一さんの書いた狩野永徳の物語「花鳥の夢」の中にも描かれているが、写真等がなかった当時の絵師は、先人の作品を目で観て、真似て描いて、粉本(ふんぽん 後日の制作のために画題の写しを集めた本)に蓄え、弟子にそれを継承し、弟子はその粉本を観て学んだようだ。今回の展示でも、雪舟の絵画を懸命に模写した後世の画家達(長谷川等伯狩野探幽伊藤若冲など)の作品をたくさん観ることができた。

雪舟の略歴は、山口市観光情報サイト「西の京やまぐち」にある。

雪舟(1420〜1506)は室町時代に活動した画家・禅僧です。備中宝福寺(岡山県総社市)での小僧時代、涙で鼠を描いた逸話は有名です。

雪舟が山口に初めて来たのは、30歳半ばのころ。大内教弘(のりひろ・大内氏13代当主)の時代、大内氏の遣明船で明(中国)に渡るため山口を訪れました。1467年には、大内氏の遣明船団の一員として明に渡り、1469年に帰国。日本各地を転々とした後、1483年、再び山口に戻りました。雲谷庵(山口市内にあったアトリエ)を拠点とし、1506年に数え年87歳で生涯を閉じるまで、数多くの傑作を残しています。

水墨画作品の最高峰とも言われる、国宝「四季山水図」(山水長巻)も、1486年に山口で完成させたものです。また、雪舟は作庭にも造詣が深く、(山口市内の)常栄寺庭園「雪舟庭」、島根県益田市の医光寺や萬福寺の庭園など(ともに国指定史跡及び名勝)を作ったと伝えられています。

因みに、自分の故郷である山口県光市にも雪舟作庭と伝わる庭園がある。場所は「峨嵋山普賢寺(がびさんふげんじ)」。出身中学校のすぐ目の前にあったお寺だったが、当時、庭には全く関心がなかった。

京都国立博物館は、帝国京都博物館として、1897年(明治30年)に開館した。設計は片山東熊で、迎賓館赤坂離宮(総指揮)、東京国立博物館表慶館奈良国立博物館などの設計者でもある。2014年(平成26年)には平成知新館が加わる。設計は谷口吉生

平成知新館の入り口横にある空間

平成知新館の入り口横にある空間

日本の代表的な建築家であった父吉郎の生家跡(金沢市)に彼が設計した「谷口吉郎・吉生記念金沢建築館」が2019年にオープンしている。同じく金沢には彼が設計した「鈴木大拙館」もあるので今度訪ねてみたい。

 

□公共交通機関使用による訪問難易度

今年からF1日本グランプリは春開催

F1日本グランプリは桜が満開の時季と重なった

F1日本グランプリは桜が満開の時季と重なった

今年はF1日本グランプリが、例年の秋開催から春開催に変更になった。なので今年は、4月5日(金)から3日間、名古屋市内のホテルから鈴鹿サーキットを往復した。

5日(金)は朝7時に自宅を出発、京都駅から新幹線で名古屋駅に向かい、ネット予約していた近鉄特急に乗り換えて白子駅まで行く。そこから三重交通シャトルバスに乗って鈴鹿サーキットに着いた。帰りは行きとは反対の方法で名古屋まで戻った。6日(土)も近鉄特急と三重交通シャトルバスで往復した。5日、6日ともに所要時間は、昨秋とほとんど変わらなかったように思う。

決勝が行われる7日(日)は、昨秋の教訓もあって、近鉄を利用せずに、名古屋駅前から鈴鹿サーキットを往復する三重交通の直通バス(サーキットExpress号)を利用した。朝7時に名古屋駅を出発したバスは、8:30にサーキットに到着、白子駅を利用した去年はサーキット到着が遅れたために見ることができなかった午前中のサポートレースとドライバーズパレードも楽しめた。帰路の直通バスも、途中道路渋滞はあったが、19:00に名古屋駅に到着、去年よりも40分早く着いた。ただそれ以上に行列待ちが皆無だったのが助かった。尚、昨年秋の投稿は次の通り。

jini3.hatenablog.com

途中の車窓で最も印象的な光景は、桑名市揖斐川長良川の間を走る1本の道路である。県道106号線というらしい。Googleマップで見てもわかるが、この道路が2つの大河を隔てている。この道が川下にある国道1号線と交わり終わった所のさらに少し下流部分で2本の大河は1本の川になる。隣を流れるもう1本の大河である木曽川とは、合流しそうで合流せず、別々の流れで伊勢湾に注ぐ。

毎年ホテルは、新幹線と近鉄に乗るのに便利な名古屋駅周辺で探している。レースウィークは宿泊費が高騰するため、F1の開催日程が発表され次第、予約を入れるようにしている。今回は「名鉄グランドホテル」に2泊した。便利で良いホテルだったが、フロントがビルの11階にあり、最初は見つけるのが難しかった。また、このビルの3階には「名鉄バスセンター」もあるが、海外の人から「名鉄バスセンターはどこか」と数回聞かれた。ここからジブリランド行きのバスが出ているらしい。ホテルもバスセンターも案内板が見つけにくかった。

せっかく名古屋にいるのだが、名古屋の街はほとんど知らない。夕方サーキットから戻ってきて、翌朝も早く出発する。なので、夕食も国際センター周辺で簡単に済ませている。それと翌日の朝食のためにパン屋さんを探すのだが、夕方遅い時間になるとなかなか見つからない。探し方が悪いのか。結局、コンビニのお世話になることが多い。

最後にレースの話を少し。角田選手が10位となり、1ポイントを獲得してとてもハッピーな結末だった。が、レース中盤以降はソフトタイヤを履いて追い上げるストロール選手をヒヤヒヤしながら見ていた。

今年は逆バンク辺りで観戦した。

逆バンクへはホームストレート下のトンネルを通っていく

逆バンクへはホームストレート下のトンネルを通っていく

ここで見ていても、レッドブル2台の速さは抜き出ていた。またここはパッシングポイントとなっている(?)らしく、角田選手をはじめ、何回か追い抜きを目撃できた。

https://www.instagram.com/reel/C5ix7PjN3hT/

さらに席からは、ホームストレートが始まる部分を真横から見られたので、各クルマの順位と前のクルマとの距離を自分の目で確認できた。そして、遠く1コーナーから2コーナー、そしてS字を駆け上がってくるクルマを俯瞰して見られる楽しい席だった。

今年から春開催となったが、観客は3日で20万人を超えたそうだ。毎年、海外の方の観戦が増えているように感じるが、今年の席の周りも(体感では)半分くらいが海外の方だった。ペレスへの声援が一番大きかったので、メキシコの方が多かったと思うが、マクラーレンフェラーリのウェアを纏っている方も多く、インターナショナルな応援席だった。

来年の開催日も既に発表になっているが、行けるかな?

 

松尾大社は秦氏の氏神

松尾大社は平安京遷都以前からあった

松尾大社平安京遷都以前からあった

前回の投稿で西芳寺について書いた。

オンライン予約ができる苔寺 - よそもんが京都で暮らす

西芳寺参拝の後、松尾大社の摂社である月読神社に立ち寄り、そして松尾大社まで歩いた。15分程の距離である。

松尾大社は、秦氏が一族の氏神として信仰した古い社が起源とされる。大宝元年(701)に現在の地に社殿が造営された。大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭り、境内には、霊亀ノ滝、亀ノ井の名水があり、醸造(酒・味噌・醤油・酢)の祖神といわれる。

因みに、千本鳥居で有名な伏見稲荷大社も、平安京遷都以前の和銅4年(711)に稲荷山に神が鎮座されたことを起源としているが、それ以前から秦氏にゆかりのある社であったようだ。伏見稲荷大社のHPには、次のように記している。

大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)《はたのいろこ(ぐ)》となっており、いわば分家と考えられていたようです。

この太秦秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。

また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。

こうして太秦秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。

この解説を読んで、平安京遷都よりも前から、京都盆地の3方に、賀茂神社松尾大社、伏見稲盛大社が存在していたことを知った。

お詣りした後、境内にある撫で亀の甲羅を撫でて不老長寿を祈る。桜にはまだ少し早かったが、西芳寺から松尾大社までは、渡月橋界隈と違って、静かな散歩コースだった。

□公共交通機関使用による訪問難易度

オンライン予約ができる苔寺

春の日差しが苔を美しく照らす

春の日差しが苔を美しく照らす

桜がようやく開花し始めた3月の終わりに、西芳寺苔寺)を訪ねた。予約には往復葉書が必要だったと記憶していたが、オンラインで予約できるようになっていた。

西芳寺は、嵐山の南、秦氏の古墳が点在する京都西山の山麓にある。阪急嵐山線「上桂」駅から徒歩で20分程の距離である。

聖徳太子の別荘であったこの地に、731年に行基が「西方寺」を開山したと言われる。鎌倉時代の初期には法然が浄土宗に改め、1339年に夢窓国師臨済宗の禅寺「西芳寺」とした。西芳寺のHPには、次の記述がある。

日本で初めて作庭された西芳寺枯山水の庭は、多くの貴人を虜にしました。なかでも足利義満と義政はたびたび西芳寺に訪れ、のちに金閣銀閣を造営する際の参考にしたといわれています。とりわけ銀閣の庭園は、西芳寺の庭園を忠実に参考にしているといわれていますが、その理由のひとつとして、当時の西芳寺が女人禁制であり、義政の母が参拝できなかったため、なんとしても母に西芳寺の姿を見せたいという義政の想いがあったといわれています。

応仁の乱で焼失した本堂、西来堂は昭和44年(1969年)に再建された。特別名勝に指定されている庭園は上下二段に分かれており、上段は枯山水式庭園(非公開なので見られない)、下段は黄金池(おうごんち)を中心とした池泉廻遊式庭園になっている。1994年に世界遺産に登録されている。

今回は、本堂で延命十句観音経の写経をした後、池泉廻遊式庭園を歩いた。入場者を制限していることから、ゆっくりと見て回ることができた。手入れの行き届いた庭の苔はとにかく美しい。今日は春の暖かい日差しがあったが、四季に応じて違った顔を見せてくれそうだ。また訪れたい。

□公共交通機関使用による訪問難易度