よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して2年目突入!

今年からF1日本グランプリは春開催

F1日本グランプリは桜が満開の時季と重なった

F1日本グランプリは桜が満開の時季と重なった

今年はF1日本グランプリが、例年の秋開催から春開催に変更になった。なので今年は、4月5日(金)から3日間、名古屋市内のホテルから鈴鹿サーキットを往復した。

5日(金)は朝7時に自宅を出発、京都駅から新幹線で名古屋駅に向かい、ネット予約していた近鉄特急に乗り換えて白子駅まで行く。そこから三重交通シャトルバスに乗って鈴鹿サーキットに着いた。帰りは行きとは反対の方法で名古屋まで戻った。6日(土)も近鉄特急と三重交通シャトルバスで往復した。5日、6日ともに所要時間は、昨秋とほとんど変わらなかったように思う。

決勝が行われる7日(日)は、昨秋の教訓もあって、近鉄を利用せずに、名古屋駅前から鈴鹿サーキットを往復する三重交通の直通バス(サーキットExpress号)を利用した。朝7時に名古屋駅を出発したバスは、8:30にサーキットに到着、白子駅を利用した去年はサーキット到着が遅れたために見ることができなかった午前中のサポートレースとドライバーズパレードも楽しめた。帰路の直通バスも、途中道路渋滞はあったが、19:00に名古屋駅に到着、去年よりも40分早く着いた。ただそれ以上に行列待ちが皆無だったのが助かった。尚、昨年秋の投稿は次の通り。

jini3.hatenablog.com

途中の車窓で最も印象的な光景は、桑名市揖斐川長良川の間を走る1本の道路である。県道106号線というらしい。Googleマップで見てもわかるが、この道路が2つの大河を隔てている。この道が川下にある国道1号線と交わり終わった所のさらに少し下流部分で2本の大河は1本の川になる。隣を流れるもう1本の大河である木曽川とは、合流しそうで合流せず、別々の流れで伊勢湾に注ぐ。

毎年ホテルは、新幹線と近鉄に乗るのに便利な名古屋駅周辺で探している。レースウィークは宿泊費が高騰するため、F1の開催日程が発表され次第、予約を入れるようにしている。今回は「名鉄グランドホテル」に2泊した。便利で良いホテルだったが、フロントがビルの11階にあり、最初は見つけるのが難しかった。また、このビルの3階には「名鉄バスセンター」もあるが、海外の人から「名鉄バスセンターはどこか」と数回聞かれた。ここからジブリランド行きのバスが出ているらしい。ホテルもバスセンターも案内板が見つけにくかった。

せっかく名古屋にいるのだが、名古屋の街はほとんど知らない。夕方サーキットから戻ってきて、翌朝も早く出発する。なので、夕食も国際センター周辺で簡単に済ませている。それと翌日の朝食のためにパン屋さんを探すのだが、夕方遅い時間になるとなかなか見つからない。探し方が悪いのか。結局、コンビニのお世話になることが多い。

最後にレースの話を少し。角田選手が10位となり、1ポイントを獲得してとてもハッピーな結末だった。が、レース中盤以降はソフトタイヤを履いて追い上げるストロール選手をヒヤヒヤしながら見ていた。

今年は逆バンク辺りで観戦した。

逆バンクへはホームストレート下のトンネルを通っていく

逆バンクへはホームストレート下のトンネルを通っていく

ここで見ていても、レッドブル2台の速さは抜き出ていた。またここはパッシングポイントとなっている(?)らしく、角田選手をはじめ、何回か追い抜きを目撃できた。さらに席からは、ホームストレートが始まる部分を真横から見られたので、各クルマの順位と前のクルマとの距離を自分の目で確認できた。そして、遠く1コーナーから2コーナー、そしてS字を駆け上がってくるクルマを俯瞰して見られる楽しい席だった。

今年から春開催となったが、観客は3日で20万人を超えたそうだ。毎年、海外の方の観戦が増えているように感じるが、今年の席の周りも(体感では)半分くらいが海外の方だった。ペレスへの声援が一番大きかったので、メキシコの方が多かったと思うが、マクラーレンフェラーリのウェアを纏っている方も多く、インターナショナルな応援席だった。

来年の開催日も既に発表になっているが、行けるかな?

 

松尾大社は秦氏の氏神

松尾大社は平安京遷都以前からあった

松尾大社平安京遷都以前からあった

前回の投稿で西芳寺について書いた。

オンライン予約ができる苔寺 - よそもんが京都で暮らす

西芳寺参拝の後、松尾大社の摂社である月読神社に立ち寄り、そして松尾大社まで歩いた。15分程の距離である。

松尾大社は、秦氏が一族の氏神として信仰した古い社が起源とされる。大宝元年(701)に現在の地に社殿が造営された。大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭り、境内には、霊亀ノ滝、亀ノ井の名水があり、醸造(酒・味噌・醤油・酢)の祖神といわれる。

因みに、千本鳥居で有名な伏見稲荷大社も、平安京遷都以前の和銅4年(711)に稲荷山に神が鎮座されたことを起源としているが、それ以前から秦氏にゆかりのある社であったようだ。伏見稲荷大社のHPには、次のように記している。

大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)《はたのいろこ(ぐ)》となっており、いわば分家と考えられていたようです。

この太秦秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。

また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。

こうして太秦秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。

この解説を読んで、平安京遷都よりも前から、京都盆地の3方に、賀茂神社松尾大社、伏見稲盛大社が存在していたことを知った。

お詣りした後、境内にある撫で亀の甲羅を撫でて不老長寿を祈る。桜にはまだ少し早かったが、西芳寺から松尾大社までは、渡月橋界隈と違って、静かな散歩コースだった。

□公共交通機関使用による訪問難易度

オンライン予約ができる苔寺

春の日差しが苔を美しく照らす

春の日差しが苔を美しく照らす

桜がようやく開花し始めた3月の終わりに、西芳寺苔寺)を訪ねた。予約には往復葉書が必要だったと記憶していたが、オンラインで予約できるようになっていた。

西芳寺は、嵐山の南、秦氏の古墳が点在する京都西山の山麓にある。阪急嵐山線「上桂」駅から徒歩で20分程の距離である。

聖徳太子の別荘であったこの地に、731年に行基が「西方寺」を開山したと言われる。鎌倉時代の初期には法然が浄土宗に改め、1339年に夢窓国師臨済宗の禅寺「西芳寺」とした。西芳寺のHPには、次の記述がある。

日本で初めて作庭された西芳寺枯山水の庭は、多くの貴人を虜にしました。なかでも足利義満と義政はたびたび西芳寺に訪れ、のちに金閣銀閣を造営する際の参考にしたといわれています。とりわけ銀閣の庭園は、西芳寺の庭園を忠実に参考にしているといわれていますが、その理由のひとつとして、当時の西芳寺が女人禁制であり、義政の母が参拝できなかったため、なんとしても母に西芳寺の姿を見せたいという義政の想いがあったといわれています。

応仁の乱で焼失した本堂、西来堂は昭和44年(1969年)に再建された。特別名勝に指定されている庭園は上下二段に分かれており、上段は枯山水式庭園(非公開なので見られない)、下段は黄金池(おうごんち)を中心とした池泉廻遊式庭園になっている。1994年に世界遺産に登録されている。

今回は、本堂で延命十句観音経の写経をした後、池泉廻遊式庭園を歩いた。入場者を制限していることから、ゆっくりと見て回ることができた。手入れの行き届いた庭の苔はとにかく美しい。今日は春の暖かい日差しがあったが、四季に応じて違った顔を見せてくれそうだ。また訪れたい。

□公共交通機関使用による訪問難易度

本法寺で長谷川等伯を観る

光悦翁手植之松と長谷川等伯像が並ぶ本法寺本堂

光悦翁手植之松と長谷川等伯像が並ぶ本法寺本堂

春の特別寺宝展(3/14〜4/15)をしている本法寺に行ってきた。今回は、長谷川等伯が息子久蔵の供養のために描いた「涅槃図」が公開されている。

本法寺は、1436年頃に開かれた日蓮宗のお寺。室町幕府の時代は、他の宗派との折り合いが悪く冷遇されたが、1587年に豊臣秀吉聚楽第整備に伴い、現在の堀川寺之内に移転した。本阿弥家の菩提寺として、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて、伽藍が整備されたが、1788年の天明の大火でその多くを焼失した。

一方、長谷川等伯は、地元七尾にあった菩提寺の本山が本法寺であったことから、本法寺を頼って上京し、次第に京都で地歩を固めて活躍していく。等伯の物語は安倍龍太郎さんが書いている。

今回、特別公開されている「涅槃図」は長谷川等伯が1599年、61歳の時に描いたもの。タテ約10メートル、ヨコ約6メートルになるとても大きな絵である。智積院に残る「桜図」(国宝)を描いた息子久蔵を失った悲しみを、当時の本堂に架けられる最大のサイズの涅槃図を描くことによって表したとされている。

天明の大火で本堂は焼失してしまうが、たまたまその時、「涅槃図」は土で作られた宝蔵に保管されていたために焼失を免れた。以来、ずっと人目に触れることなく静かに保管されていたが、1987年(昭和62年)に新しく宝物館が竣工、これによって200年振りに参拝者の前に現れた。とにかく大きさに驚く。

□公共交通機関使用による訪問難易度

奈良で一番好きな空間

本尊薬師如来を十二神将が護る新薬師寺

本尊薬師如来十二神将が護る新薬師寺

東大寺二月堂のお水取りが終わって、近鉄奈良駅近くに戻って来たのは20時頃。京都まで戻れる時間だが、20数年振りに奈良に泊まってみることにした。猿沢池の近くのホテルにした。部屋からは興福寺の国宝五重塔がよく見える。最近は奈良もホテルが増えている。

翌朝、奈良旅の2日目は、ならまちにある元興寺(がんごうじ)からスタートする。元興寺は、日本最古の本格的仏教寺院であった飛鳥の法興寺(のりのおこりしてら 現・飛鳥寺)が、平城京遷都に伴い移転してきた。南都七大寺にも選ばれる大寺で、現在のならまちの大部分は元興寺の境内であったようだ。火災で伽藍の大部分は焼失したが、現存している極楽堂と禅室に葺かれている数千枚の瓦の中には、創建時の飛鳥時代平城京遷都後の奈良時代のものが残っている。世界遺産

次は、東の山に向かって登っていき、新薬師寺を訪ねる。新薬師寺の創建は、元興寺よりは新しく天平19年(747)。45代聖武天皇の病気の平癒を願って、光明皇后が建立した。西ノ京にある薬師寺とは関係はない。この新薬師寺も大寺だったようだが、応和2(962)年の台風などで多くの伽藍は失われた。唯一、奈良時代後期の建立と考えられる本堂だけが現在残っている。

そして、この本堂の中がとにかく凄いのなんの!!! 本尊の薬師如来を今にも動き出しそうな十二神将が取り囲む形で護っている。創建当時からずっとこの形は変わっていないらしい。誰が作ったのかも分からないこの12体の塑像は、当時は極彩色に塗られ輝いていたようだ。個人的には、これまで訪ねた奈良の寺社の中で一番好きな空間だ。ずっと見ていたい。自信を持っておすすめできる。

奈良旅はここまで。お土産に近鉄奈良駅近くの今西本店で奈良漬を買う。ここの奈良漬は京都で買う奈良漬と比べると、色は黒くて、味も甘くない。それがいい。

 

 

西ノ京に薬師寺と唐招提寺を訪ねる

薬師寺の金堂と東塔

薬師寺の金堂と東塔

今回の奈良旅の目的は、前回投稿した東大寺二月堂のお水取りを見ることだったが、お水取りが行われるのは夜なので、日中は西ノ京を散策した。

近鉄京都駅から近鉄西ノ京駅までは、急行で約50分で着く。本数の多い特急に乗れば30分余りで着くが、別途特急券が必要になる。改札を出てすぐのところにあるのが薬師寺、そして少し北に歩くと唐招提寺がある。どちらも国宝建造物が残り、世界遺産に指定されている。

薬師寺は、40代天武天皇が皇后(後の41代持統天皇=38代天智天皇の娘)の病気平癒を願い、天武9年(680)に建立を始めた。しかし、志半ばにして天武天皇崩御する。この造営を皇后であった持統天皇が引き継いで完成させた。

創建当時の建物で唯一現存しているのが東塔。法隆寺五重塔よりは新しいが、710年平城京遷都以前の建物である。屋根は6層に見えるが、各階に裳階(もこし)が付いているため、三重塔である。

薬師寺創建当初より金堂にお祀られている本尊が薬師三尊。 中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩と並んでいる。『日本書紀』に開眼法要の日が697年7月29日と記されている。創建時の金堂は後に焼失したが、ブロンズ製の本尊は、木製の光背を除いて、当時の造形をそのまま残しているとのこと。お坊さんの講話によると、日本で銅が発見されたのは708年(和銅元年)。つまり、この三仏に使われている銅は全てが輸入品であった。当時、銅20トンを輸入するのに、金20トンで支払った。なので、「銅」という漢字は「金と同じ」と書くらしい。この話、信じていいのか(笑)

次に行ったのが、唐招提寺天平宝字3年(759)に創建された鑑真の私寺。鑑真は、天宝元年(742)に朝廷からの招請を受け、その後の12年間に5回の渡航を試みた。しかしいずれも失敗し、その間に失明までしたが、6回目の挑戦でようやく日本に到着した。

教科書でよく見た鑑真和上坐像(国宝)は、御影堂に安置されているが、特別拝観時を除いて見ることができない。その代わりに、2013年からは、開山堂で「御身代わり像(おみがわりぞう)」を見ることができる。

西ノ京のこの2つのお寺は、2時間もあれば、十分堪能することができる。古の奈良を感じられるところである。

 

東大寺二月堂のお水取りを初めて観る

東大寺二月堂の舞台を松明が走る

東大寺二月堂の舞台を松明が走る

3月9日の土曜日、奈良東大寺の「お水取り」を見てきた。奈良県のHP「いかすなら」によると

正式には修二月会といい、過ぎ去った旧年の穢れを祓う懺悔(さんげ)と、来るべき新年の国家の平安や豊穣を祈るため、毎年旧暦二月に執行される「悔過(けか)」の法要行事です。この行事は、奈良時代に朝廷の保護を受けた南都七大寺東大寺興福寺元興寺、大安寺、西大寺薬師寺法隆寺)を中心に盛んに行われるようになります。それぞれの本尊に対して懺悔をすることで僧侶の自己修行だけではなく、国家全般の救済と利益につなげる法要で、浄行する僧侶は期間中毎日、心身を清めて礼拝行を行うという、苦行の一面も持ちます。なかでも東大寺のお水取り、薬師寺花会式(はなえしき)、長谷寺のだだおし、新薬師寺のおたいまつ、などが広く知られています。

一般には「お水取り」と呼ばれている東大寺の二月堂で行われる修二会は、毎年3月1日から14日まで行われます。練行衆と呼ばれる11人の僧侶が、二月堂本尊の十一面観音菩薩への賛美礼拝を重ね、人々の代わりにあらゆる罪を懺悔して、国家の安泰や五穀豊穣などを祈る法会(十一面悔過法要)を行います。この法要は天平勝宝4年(752)に東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚が創業して以来、1度も途絶えることなく行われてきた「不退の行法」です。

17時半頃、二月堂に到着したが、既にたくさんの人が待っていた。この日はとても寒く、ぶるぶる震えながら待つこと90分。日が完全に落ちた19時になると、周辺を照らしていた灯りが消され、準備が整ったことを知らせる。そして、最初の松明から10本目の松明まで、順番に二月堂に登っていき、その舞台を火の粉を飛ばしながら駆け抜けた。あっという間の20分間だったが、天平年間の752年から1272年間、この法要が途切れることなく続いていることを思うと感激深い。

東大寺はとても広く、その中でも高台にある二月堂まではそれなりに歩く。当然、帰路も長く、そして寒かった。