よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して4年目!

はじめての京都観光 どうする?

©︎Google Earth

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知人から「ちょっと京都に行くんだけど、どこに行けばいい?」と質問されることが多い。京都の楽しみ方はいろいろだし、季節によって見どころも違う。普段は見られない所の特別拝観があったり、ライトアップしている時期もある。この投稿では「はじめての京都観光」の人に向けて、いくつかの観光名所を紹介してみたい。

大前提として、京都市内は東京都心と比べるとかなり狭いので、地下鉄と私鉄、そして市バスと徒歩を組み合わせれば、大概の場所は安価に移動できる。Google Mapで最寄りのバス停をクリックすると、行き先と経路が表示されるので、乗るバスに迷うこともなくなった。また時間を稼ぐには、タクシー利用も有効だ。ということでスタートしてみよう。

1)東寺

昔、歴史の授業で習った通り、桓武天皇が平安京に都を移したのが794年。それと同時にできた官寺が東寺と西寺、現存するのは東寺だけだ。それから29年後の823年、嵯峨天皇が唐から戻った空海に東寺を託す。空海は東寺を真言密教の根本道場に変える。現在の東寺の建物は、桃山時代から江戸時代にかけて再建されたものだが、空海が密教の教えを分かりやすく伝えるために具現化した講堂の立体曼荼羅は今でも見ることができる。

東寺は空海のお寺 - よそもんが京都で暮らす

東寺五重塔は5代目 - よそもんが京都で暮らす

2)三十三間堂

時代は平安時代、平家が活躍していた頃、院政を敷いていた後白河法皇が住んでいたのが、京の都の公式な境界線のすぐ外側に築いた「法住寺(ほうじゅうじ)」だ。三十三間堂は、この法住寺の中に、平清盛からの資金提供を受けて1164年に建設された。1249年の火災で全焼したが、後嵯峨上皇によって再建され、現在では1266年に建てられた建物が残っている。1001体の千手観音像が規則正しく並ぶ姿は壮観の一言に尽きる。

1001体の千手観音、三十三間堂 - よそもんが京都で暮らす

今年も三十三間堂を訪ねる - よそもんが京都で暮らす

3)金閣寺

室町幕府3代将軍足利義満の山荘北山殿を、義満の死後1397年にお寺としたのが金閣寺(正式には鹿苑寺)だ。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたといわれている。金閣は舎利殿で、一層に釈迦三尊が安置され、二層目は観音殿、三層に仏舎利がおさめられているそうだが、中は非公開なので見ることはできない。大書院の障壁画には、もともとは伊藤若冲の作品が飾られていたが、保護のため1984年に相国寺承天閣美術館に移された。「月夜芭蕉図」と「葡萄小禽図」は常時公開されている。

4)二条城

時代は関ヶ原合戦の後、1603年に江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所とするために二条城を築城した。将軍不在時には、江戸から派遣された二条在番によって守られていた。1867年に15代将軍慶喜が「大政奉還」の意思を表明したのが二の丸御殿だ。絢爛な桃山文化の遺構が見られる。

1泊2日の京都旅行であれば、上記4ヶ所を回って、美味しい食事をとれば、結構お腹いっぱいになるだろう。もし時間に余裕があれば、次の3ヶ所を薦めたい。

5)広隆寺

平安京遷都以前から存在した京都最古のお寺で、600年代の初めの頃、秦河勝(はたのかわかつ)が建立し、聖徳太子を本尊としている。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺だ。国宝指定第1号で「東洋のモナリザ」といわれる弥勒菩薩像はぜひ見てほしい。

広隆寺の圧倒される空間 - よそもんが京都で暮らす

6)宇治平等院

藤原摂関政治の全盛期を誇った藤原道長の別荘宇治殿を息子の頼通が1052年に寺院に改めた。頼通は、翌1053年に極楽浄土の宮殿をモデルにした阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。堂内には、仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置されている。

平等院で阿弥陀如来の慈愛に触れる - よそもんが京都で暮らす

7)桂離宮

ここは事前予約がないと入れない。江戸時代の初め1615年頃に、八条宮家初代の智仁親王によって山荘造営が始まり基礎が築かれた庭園だ。智仁親王は106代正親町天皇の孫、107代後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は豊臣秀吉の猶子となったが、後に秀吉に実子鶴松が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設することとなった。「京都の庭は一般的に借景に頼るが、ここは庭だけで勝負している」といわれるような美しい庭だ。

絶対に予約して行くべき!桂離宮 - よそもんが京都で暮らす

番外編として、海外からの観光客に特に人気の3ヶ所を紹介する。

8)清水寺

「清水の舞台」で有名な清水寺は、平安京遷都前の778年に開かれ、798年には坂上田村麻呂が仏殿を建立したと伝わる。本尊は国宝の十一面千手観世音菩薩(次回は2033年の開帳らしい)で、観音信仰の霊場として知られる。現在の伽藍の多くは江戸時代1633年に再建されたものだ。東山の高台に位置する清水寺から見下ろす景色も素晴らしいが、清水寺まで登る清水坂や五条坂、産寧坂の両側にはお店が連なり、歩くだけで楽しいエリアだ。

清水寺の千日詣りに行く - よそもんが京都で暮らす

雪の清水寺に行ってきた - よそもんが京都で暮らす

9)伏見稲荷大社

赤い千本鳥居が大人気の伏見稲荷大社、全国にあるお稲荷さんの総本宮だ。御祭神が稲荷山に鎮座されたのは奈良時代の711年と伝わる。稲荷山全体が神域とされる。JR奈良線の稲荷駅、京阪本線の伏見稲荷駅を降りてすぐの所にある。

伏見稲荷大社の幻想的な夜 - よそもんが京都で暮らす

10)嵐山

「渡月橋」からみる景色と嵯峨野の「竹林の小径」で有名な嵐山。嵐電嵐山駅を降りた所にある天龍寺は、室町幕府を開いた足利尊氏が1339年に開いた。建武の新政の実現に敗れた後醍醐天皇が怨霊化するのを恐れたためだといわれる。嵐山を借景とする天龍寺の庭は美しい。

嵐山観光では山にも登ってみたい - よそもんが京都で暮らす

嵐山で新緑を満喫する - よそもんが京都で暮らす

そして最後に、もしあなたがデビットボウイのファンならば外せないのがココ。

11)正伝寺

ここは五山の送り火「舟形」近くの山を登るので、少し行きにくい。途中、京都ゴルフ倶楽部の電動カートに出くわすこともある。鎌倉時代の1273年頃、烏丸今出川辺りにあったお寺がはじまりらしいが、1282年に現在の地に移転した。後醍醐天皇の時代には洛北きっての名刹になったようだ。応仁の乱以降に荒廃したが、江戸時代の1653年になって、南禅寺塔頭金地院から小方丈を移築して再興された。この小方丈、元々は伏見桃山城の遺構で、縁側天井には鳥居元忠以下割腹して果てた人々の血の跡が残っている。小方丈前の庭は「獅子の児渡し」の庭といわれる。遠く比叡山を借景として、デヴィッド・ボウイが涙したといわれる景色が眼前に広がる。

比叡山を借景とした庭はここ正伝寺が一番か! - よそもんが京都で暮らす

以上。
あれー?
上賀茂神社や下鴨神社、銀閣寺や南禅寺、八坂神社や高台寺、建仁寺や祇園、大徳寺や龍安寺、仁和寺や北野天満宮、龍安寺や大覚寺、大原三千院や比叡山延暦寺は...と思われたかも。今回は「はじめての」というテーマで選んだのでご理解を。それでは楽しい京都観光を!

しまなみ海道の瀬戸田港

向上寺国宝三重塔と瀬戸田港

向上寺国宝三重塔と瀬戸田港

5月の最終週、2泊3日の旅行に出る。最初の目的地は、しまなみ海道生口島の瀬戸田港だ。京都駅から新幹線で福山駅まで75分、福山駅から愛媛県松山行きの高速バスに乗る。瀬戸田BS(バスストップ)までは約60分だ。瀬戸田BSで路線バスを待ち、約30分で瀬戸田港に着く。

今日泊まる旅館に荷物を置いた後、向上寺に行く。瀬戸田港からは歩いてすぐの距離だが、ちょっとした山登り。国宝三重塔から見る瀬戸内の景色が素晴らしい。山を下りて、平山郁夫美術館まで歩く。HP解説にある通り、ここは平山郁夫さんが生まれた所だ。

平山郁夫は、昭和5年(1930)に瀬戸田町で生まれ、瀬戸内の青い海や緑の島々の織り成す豊かな自然の中で少年期を過ごしました。生涯を通じて「私の原点は瀬戸内海の
風土である」と語っていたその場所で、平山芸術の原風景を発見していただければ幸いと存じます。

この美術館は、平山郁夫さんのスケッチをメインに展示してある。子どもの頃から、抜群に絵が上手だったことが分かる。平山郁夫さんは中学生の時に、広島市の勤労動員先でB29の原爆投下を目撃したそうだ。以下、閃光という文章がB29のスケッチと一緒に展示されていた。

何を思ったのか、自分一人だけは外に出てきれいに晴れた空を眺めていた。と、白い飛行機雲を引っ張ったB29が、スーツと上空に入ってきた。警報も出ないしサイレンもない。そして、頭上はるか高いところでパッパッと落下傘が開いた。一体何だろう。「抵抗をやめよ」という前にもまかれた宣伝のビラだろうか。ピラなら木の葉のようにひらひらと舞うはずなのに、純白の落下傘は、きらきら輝きながら静かに降りてくるだけだ。「へんなものが落ちてくるぞー」叫びながら、仲間のいる小屋の中に入ったのと同時だった。目の前でマグネシウムのフラッシュをたかれたようにパーツと明るくなった。板ばりの相末な小屋が、大光に包まれた。

瀬戸田港から平山郁夫美術館に至る道は「しおまち商店街」となっている。コロナ禍後、この商店街に島外資本が進出してきて宿泊施設や飲食施設を開いたので、たくさんの観光客やサイクリストが訪れるようになった、と泊まった旅館の女将が言っていた。因みに、瀬戸田港に来る公共交通機関を使ったメインルートは、三原と尾道から来るフェリーになるため、日帰り客も多いそうだ。

サイクリスト走る真風(まぜ)の瀬戸田港

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 平山郁夫美術館(易)
  • 向上寺(中)

京田辺の古刹 一休寺と観音寺

一休禅師は皇子のため墓所は宮内庁の管理

一休禅師は皇子のため墓所は宮内庁の管理

ゴールデンウイークの晴れの日、京田辺市の古刹を巡る。最初に目指したのは一休寺。京都駅八条口から京阪直Qバスに乗ると40分で到着する。HPの解説は次の通り。

当時の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455〜6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。

禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われたのであり、文明13年(1481年)11月21日八十八歳の高齢を以って当寺において示寂され遺骨は当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至ったのである。

本堂(法堂)は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されています。当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年から1441年の永享年間に室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されました。

一休寺は京都方面からのアクセスはよいが、JR京田辺駅と近鉄新田辺駅方面に向かうには、歩くほかない。約25分歩いて近鉄新田辺駅に着く。ここから奈良方向に2駅目の三山木駅まで行く。駅から大御堂観音寺へ向かうバスは1日に2便しかない。時間が合わず、ここでも約25分歩くことにする。大御堂観音寺について、京田辺市観光協会のHP解説は次の通り。

天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれている。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。 

十一面観音立像は、天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。 一木式木心乾漆造(いちぼくしきもくしんかんしつづくり)、漆箔(しっぱく)(下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工)仕上げ。 立像は度重なる修理によって形を変えていた部分もあったが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられた。

寺に着くとすぐに開帳してくれて、本尊の国宝十一面観音立像を間近に見せてもらった。奈良天平時代の仏像はどこかエキゾチックで素晴らしい。寺の人の説明では、以前は普賢寺という名で、藤原氏の氏寺である興福寺の北方別院として権勢を誇ったらしい。現在は観音様を安置する本堂だけが残っているので、大御堂観音寺という名前になったらしい。今年NHKで「京都人の密かな愉しみ」の新シリーズが放映されたが、その第1回の冒頭に穂志もえかさんがこのお寺を訪れる場面があったらしい。

帰り道も、同志社大学田辺校舎を左手に見上げながら約25分、近鉄三山木駅まで歩く。三山木駅から京都までは電車に乗ると約40分だ。京田辺市から京都に向かうとすぐに木津川に架かる橋を越える。かつて平城京を作るために、川上そして川下の両方から大木が運ばれたのがこの川だ。そして材木を陸揚げした港(津)は「木津」という町になったらしい。

木を運ぶ川の津(みなと)に風薫る

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 一休寺(中)
  • 大御堂観音寺(中)

 

 

柳生に向かう山の中にある円成寺

円成寺国宝春日堂と白山堂 赤と緑の対比が絶妙だったのでカラー画像で

円成寺国宝春日堂と白山堂 赤と緑の対比が絶妙だったのでカラー画像で

ゴールデンウイークは、運慶が初期に造った仏像、大日如来坐像がある忍辱山円成寺(にんにくせん えんじょうじ)に行く。円成寺は奈良市内から柳生の里に抜ける道沿いにある。実は去年の紅葉の季節に行こうと思ったが、クマ出没のニュースで断念した経緯がある。京都駅からはJRで奈良駅まで約1時間、バスに乗り換えて35分で到着するのだが、奈良交通のバス便が、朝1本、昼1本、夕方1本と極めて少ないので、発車時間には要注意だ。

円成寺HPの解説は次の通り。

創建については諸説あります。当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。

天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始めるに及び当山の基礎が築かれました。

平安時代から次の鎌倉時代にかけて多くの堂宇や尊像が造顕されてきましたが、文正元年(1466)、応仁の兵火により、堂宇の大半を失います。しかし、当山子院知恩院院主・栄弘阿闍梨を中心に、直ちに復興造営が開始され、栄弘が没した文明19年(1487)には、14の堂宇が復興されました。

江戸時代には、将軍の殊遇を受け、当初130石でしたが、応仁の兵火復興の過程で請来された「高麗版大蔵経」(現・東京、増上寺蔵)献上の恩賞として105石が加増、寺領235石、山内23寺をもつ一大霊場となりました。

幕末の動乱と維新の神仏分離以降は、寺領の返上と社会風潮の一変で衰退の一路をたどり、明治10年(1877)には、本堂、楼門、護摩堂、観音堂、鎮守三社を残すのみとなりました。明治15年(1882)、盛雅和尚の晋山以降、楼門、本堂の大修理と本坊、脇門の移建が行われ、県道の整備もあり、ようやく残った伽藍の保持がなされ、次の霊瑞和尚、先代賢住和尚の時代に主要堂宇のほとんどが改修、多宝塔も再建、浄土庭園などの境内地も整備され、今日の姿が整いました。

国宝大日如来坐像についてのHP解説は次の通り。

台座内墨書から鎌倉新様式を切り開いた、運慶の最初期の作と知れる記念碑的仏像。若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。 大日如来は密教における根本仏。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」の意味をもち、如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着け、一種の王者の姿をとっています。 運慶の生年は不明ですが、造像は20歳代と推定されています。

また、大日如来坐像の造形についてはここに詳しい。

未来へ受け継がれる文化財~二体の大日如来~|祈りの回廊 2019年春夏版|掲載コラム|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳]

山間にある円成寺は観光地化されていないので、境内は草木の手入れの行き届いていない所もあった。しかし参拝者が少ない分、本堂の阿弥陀如来像と宝物館に移された国宝大日如来坐像をじっくり堪能できた。

帰りのバスの時間を待って、行きと反対のルートで奈良市内まで戻る。行きに乗ってきたバスは柳生を抜けて、月ヶ瀬温泉まで行くので、そこで三重交通のバスに乗り換えて、伊賀上野市に向かうバスルートもある。しかしこちらの便数も少ないので今回は諦める。

まだ午後も早い時間だったので、近鉄奈良駅から学園前駅まで電車で行き、駅前からバスに乗り、写真家の井上博道記念館に行ってみる。井上博道さんの略歴は次の通り。

井上博道の世界

昭和6年(1931)、兵庫県香住の禅寺に生まれる。龍谷大学在学中に西本願寺詰めの産経新聞記者の司馬遼太郎と出会う。それがきっかけとなり、卒業後、産経新聞大阪本社に入社。編集局写真部に配属される。昭和41年(1966)フリーカメラマンとして独立し、撮影・創作活動に専念。平成24年(2012)、不慮の事故により81歳で逝去。

こちらも観光地ではないので、産経新聞社時代に司馬遼太郎さんと一緒にした仕事「美の脇役」写真展をじっくりと見られた。住居をリノベーションしたギャラリー兼カフェ兼レストランがとにかく凝っていて、素敵な空間で美味しいコーヒーをいただいた。

新緑の山寺運慶の技光る

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 円成寺(中)
  • 井上博道記念館(易)

 

嶋䑓ギャラリー?

御池通東洞院にある嶋䑓ギャラリー

御池通東洞院にある嶋䑓ギャラリー

KYOTOGRAPHIE2026の会場の一つとなっている嶋䑓(しまだい)ギャラリーに行ってみる。前から気になっていた屋号の看板がようやく読めた。KYOTOGRAPHIE2026は、今年で14回目になる国際写真展で、例年この時期(今年は4/18〜5/17)に、京都市内の複数会場でいろいろな写真展が開催されている。共通チケットで複数の会場をハシゴしてもいいし、単館チケットで個別の展覧会を見てもいい。今回は、嶋䑓ギャラリーの「ANTON CORBIJN アントン・コービン」展だけを見に行った。HPの解説は次の通り。

アントン・コービンの写真は、決して「完璧」とは言えないでしょう。粒子は粗く、ブレや歪みがあり、型破りな構図や形式的なルールから逸脱しているものもあります。しかし、コービンの作品のトレードマークとも呼べる粗々しいスタイルを生み出しているのは、まさにその「不完全さ」なのです。

アントン・コービンは1955年オランダのロッテルダム近郊にある保守的な村の牧師の家庭に生まれ育ちました。音楽はコービンにとって、現実逃避の手段でした。「音楽は自由で刺激的な、素晴らしい世界を教えてくれました」とコービンは語ります。17歳のときに一家でオランダ北部の大都市に引っ越し、父親の古いカメラを借りて、街の広場で演奏するあるバンドの撮影を始めました。その写真を音楽雑誌に送ると、見事に採用されたのです。その後『New Musical Express』誌の専属フォトグラファーとなったコービンは、数十年におよぶそのキャリアを通じて、ミュージシャンやアーティスト、デザイナー、モデル、画家や文化人に至るまで、時代を代表し強い影響力を持つ人びとを撮影し続けました。

本展では、50年以上にわたるコービンのキャリアから、100点近い作品を展示します。初期のポートレートからスタートし、最後には1980年代にヨーロッパ各地の墓地で撮影した〈Cemetery〉シリーズが登場します。墓石からスーパースターまで、被写体は違ってもコービンは常に写真を通じて人間の深層心理や存在のありかを明らかにすることを試みてきました。「私の作品にはとても人間臭いところがあります」と彼は語ります。そして、その不完全さと粗々しいタッチこそが、被写体をかつてないほど生き生きとした姿で画面に焼き付ける力となっているのです。

「嶋䑓」の沿革は、HPにある通り江戸時代に始まるが、室町時代の初期には、この地(御池通東洞院通)の少し東側の高倉通には足利尊氏邸が、そして御池通を挟んで南側には弟の足利直義邸があった。

慶長13年(1608)、糸割符商として創業。のち加賀絹・丹後縮緬・生絹も扱い、屋号を北糸と称しました。天明3年(1783)摂津国の酒造家との縁により酒造業を開始。翌4年(1784)に伊丹店を開店、同地で醸造した酒の江戸出荷をはじめました。以後この両業を家業としました。

享和2年(1803)京都店開店。屋号を丸岡屋と称しました。「嶋臺」は伊丹の領主である近衛家の御用酒であったため、他国酒禁制の京の地において、はじめて伊丹酒が販売されたと伝えられています。明治27年(1894)の明治天皇銀婚式御祝典には清酒「嶋臺」を献上、また大正・昭和両天皇御即位の御儀に際しては、賢所に供する御饌酒の御用命の栄にも浴しました。

現存の建物は、幕末の兵火で焼失後、明治16年(1883)に再建。当時、東は東洞院通から西は車屋町通まで35間余、北は20間、南側は旧御池通をはさみ諸建築があった大規模なもので、伝統的町家建築の頂点に立つものとされてましたが、昭和31年(1956)に西半分強が取り壊され現状となりました。当ギャラリー西館が旧北糸商店、東館が旧丸岡屋の各々一部分にあたります。平成16年(2004)、大規模町家建築の遺構として、国の登録有形文化財の指定を受けました。

中庭がある趣きのある建物を一周する形でギャラリーが設置されている。自然光が入る展示室と照明だけの展示室がある。靴を脱いで入る展示室と靴を履いて歩く展示室がある。さほど大きい建物ではないが、いろいろと楽しませてくれた。写真展は80〜90年代のスーパースターのポートレートがいっぱいで懐かしかった。

幟(のぼり)立つ伝統町屋の写真展

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 嶋䑓ギャラリー(易)

 

 

秀吉が造った長浜の町

竹生島宝厳寺 国宝唐門

竹生島宝厳寺 国宝唐門

真夏の猛暑が来る前にいろいろと出かけておきたい…ということで、琵琶湖に浮かぶ竹生(ちくぶ)島に初めて行ってみる。京都からはJR湖西線で近江今津駅まで1時間。途中で一度、特急サンダーバードに抜かされる。駅から歩いてすぐの今津港まで行き、予約していたクルーズ船に乗る。今回は、今津港→竹生島→長浜港というコースを申し込んだ。乗船料は3600円。今津港を出発し、竹生島までは25分の船旅となる。

竹生島での自由時間は70分だ。竹生島宝厳寺HPの解説は次の通り。

神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。

行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。

当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。

そして、豊国廟より移築された国宝唐門の解説は次の通り。元々は大阪城の極楽門であったとされる。

『唐門』とは、唐破風をもつ門という意味です。この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものです。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。

文献としては、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に、大坂城の極楽橋が豊国神社に移築された旨の記述があり、また、豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 にて、豊国極楽門を竹生島に寄進したとの記述を残しています。この二つの文献の記述により、大坂城の極楽橋が竹生島宝厳寺に移築されたことは間違いないでしょう。さらに平成18年、オーストリアにあるエッゲンベルグ城にて『大坂城図屏風』が発見されました。その絵中には『極楽門』の前身であったと伝えられている大坂城の本丸北方に架けられていた『極楽橋』の姿が描かれており、その絵図から判断して、『唐門』こそが、秀吉が建てた幻の大坂城の唯一の遺構であろうと昨今注目を集めています。

港から宝厳寺本堂までは急峻な石階段の登りが続く。距離は大したことはないが、勾配がきつかった。竹生島からまた船に乗り35分、琵琶湖東岸の長浜港に到着する。長浜港の側には長浜城趾豊公園がある。長浜の歴史については、名古屋刀剣博物館の説明が分かりやすい。

豊臣兄弟ゆかりの城・長浜城とは/名古屋刀剣博物館・名古屋刀剣ワールド

「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)とは、1573年(天正元年)に、豊臣秀吉が新しく築いた城のことです。豊臣秀吉にとって、はじめての持ち城で、出世城とも呼ばれています。

長浜城のある北近江国(きたおうみのくに:現在の滋賀県長浜市、米原市、彦根市周辺)は、もともとが浅井長政の領地でした。しかし、浅井長政は、義兄・織田信長と対立。1570年(元亀元年)に「姉川の戦い」が起こり、浅井長政・朝倉義景連合軍は、織田信長・徳川家康連合軍に敗北してしまうのです。浅井長政は、居城「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県長浜市)へと逃げ帰りましたが、小谷城は織田信長軍が包囲。織田信長軍の豊臣秀吉に降伏を勧められましたが、1573年(天正元年)、浅井長政は自害し、浅井氏は滅亡しました。

なお、朝倉義景も自害して朝倉氏も滅亡。この一連の戦功により、豊臣秀吉は、織田信長から浅井氏の旧領のうち、120,000石を拝領したのです。豊臣秀吉は「今浜」と呼ばれていた土地を、織田信長の名前から一字取って「長浜」と改め、長浜城を新築し、城下町を形成。なお、浅井長政が居城とした小谷城は廃城とし、小谷城を解体した資材が長浜城の築城に用いられました。

ところが、1582年(天正10年)に「本能寺の変」が勃発し、織田信長が死去。「清洲会議」による話し合いで、長浜城は「柴田勝家」(しばたかついえ)に譲り渡すことになります。しかし、豊臣秀吉と柴田勝家は対立し、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)となるのです。その結果、豊臣秀吉が勝利。豊臣秀吉は、長浜城を取り返し、「山内一豊」(やまのうちかずとよ)に与えます。その後「内藤信成」(ないとうのぶなり)、「内藤信正」(ないとうのぶまさ)親子が入城しましたが、1615年(元和元年)に廃城となりました。

なお、長浜城は解体されて、「彦根城」(ひこねじょう:現在の滋賀県彦根市)に移築。また、大手門(おおてもん:正門)は長浜市内の「長浜別院大通寺」(ながはまべついんだいつうじ)の台所門に、搦手門(からめてもん:うらもん)は同市内の「知善院」(ちぜんいん)の表門として移築され、現存しています。

城址公園からJR長浜駅を通って旧市街地の黒壁スクエアに向かう。食べ歩きが楽しめる観光地になっている。この周辺では、4/14と4/15に春の例大祭「長浜曳山まつり」があったばかりの長浜八幡宮と旧長浜城の大手門が移設された大通寺を訪ねる。地酒と鯖棒鮨を買って京都に戻る。長浜駅から京都駅まではJRの直通電車があり75分で到着する。

春霞琵琶湖に浮かぶひょうたん島

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 竹生島宝厳寺(易)
  • 長浜城趾(易)
  • 長浜八幡宮(易)
  • 大通寺(易)

 

太陽の塔は色褪せない

太陽の塔とミャクミャク

太陽の塔とミャクミャク

万博記念公園に初めて行ってみる。阪急京都線の南茨木駅でモノレールに乗り換え、万博記念公園駅で降りる。駅を出てすぐ左手に大きく太陽の塔が見えてくる。5分ほど歩くと公園の入り口ゲートに着く。

太陽の塔の内部に入るには、前日までのオンライン予約が必要で、入場料は1080円(公園入場料450円を含む)だ。太陽の塔オフィシャルサイトによる解説は次の通り。

太陽の塔は、芸術家の岡本太郎がデザインし、1970年に開催された日本万国博覧会のシンボルゾーンにテーマ館として、母の塔・青春の塔・大屋根(長さ(南北)292メートル、幅(東西)108メートル、高さ約40メートル)とともにつくられました。

塔の頂部には金色に輝き未来を象徴する「黄金の顔」、現在を象徴する正面の「太陽の顔」、過去を象徴する背面の「黒い太陽」という3つの顔を持っています。「太陽の塔」は過去・現在・未来を貫いて生成する万物のエネルギーの象徴であると同時に、生命の中心、祭りの中心を示したもので、博覧会開催期間中、博覧会来場者(約6,400万人)に多くの感動を与えました。

博覧会当時テーマ館の地下展示には「地底の太陽」といわれる顔も展示されていました。「地底の太陽」は、高さ約3メートル、全長約11メートルにもなる巨大な展示物であったとされていましたが、博覧会終了後の撤去作業から50年近く経った現在も行方がわからない状態となっています。

2018年から一般公開が再開された太陽の塔だが、やはりモニュメントとして存在感はすごい。復元された内部の「生命の樹」も見応えがある。1970年の万博では、国立民俗学博物館が残った。2025年の万博の後はカジノが残るのか。桜のシーズンは終わったが、公園はチューリップが満開だった。

太陽の塔と満開のチューリップ

□公共交通機関の使用による訪問難易度

  • 万博記念公園(易)

 

八幡堀に満開の桜

八幡堀の桜 カラー画像で

八幡堀の桜 カラー画像で

4月最初の週末、近江八幡の八幡堀に桜を見に行く。京都駅から近江八幡駅まではJR東海道線で約40分だ。近江八幡駅から八幡堀までは、バスで10分もかからない。近江八幡の町の沿革については、国土交通省の解説が詳しい。

https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653760.pdf

近江八幡の起源は、1585 年、豊臣秀次(1568–1595)が八幡山に築いた城に遡る。秀次は、武将の豊臣秀吉(1537-1598)の甥(※姉である瑞龍院日秀の長男)であった。秀吉は、1576 年に近江国(現在の滋賀県)の安土を本拠地とした、当時日本最強の武将・織田信長(1534-1582)の右腕であった。

1582 年に信長が殺されると安土城は廃城となり、秀吉はかつての主君の夢であった天下統一を実現するために動き出す(※1591年、弟秀長死去)。1592 年、秀吉は秀次を豊臣家の跡取りとした。秀吉は秀次に命じて、近江に豊臣家の勢力基盤として八幡山城を築かせた。叔父の命により、城下の八幡町(現在の近江八幡市)も整備し、安土などの商人を住まわせ、商館・「座」などの影響を受けない「楽市楽座」地帯とし、商業の拠点とした。また、八幡堀を掘らせ、城の防御と町と琵琶湖を結ぶ物資輸送の運河の役割を持たせた。

しかし、秀次の豊臣家の世継ぎとしての地位は長くは続かなかった。1593 年、秀吉(※と茶々=淀殿の間)に実子(※拾=秀頼)が生まれ、甥への信頼が薄れた。2 年後、秀吉は秀次を自害に追い込み、八幡山城は廃城となった。しかし、八幡の町は繁栄を続け、貿易や商業の重要な中心地となった。それは、琵琶湖のほとりに位置し、京都と江戸を結ぶ二大街道の一つである中山道の近くにあったという地の利の良さによるものであった。八幡の商人は、当初は蚊帳や畳表、麻織物などの商品を売って全国を回っていた。そして、主要都市に交易網を築き、需要や流行、社会情勢の変化に応じて柔軟に商売のやり方や在庫を変化させていったのである。その富は、旧市街の新町・永原町界隈の邸宅に反映されている。その一つ、新町通りの旧西川利右衛門家住宅は、勤勉、誠実、社会貢献で全国的な名声を築いた八幡商人の生活と遺産を展示する博物館として整備されている。

20 世紀、八幡商人の価値観は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって大切に受け継がれ、その高潔な精神は近江八幡に愛され続けている。ヴォーリズは、キリスト教の布教のため、地元の高校で英語を教えるために来日したが、布教のための資金を得るべく、建築、出版、薬品販売などの分野に進出した。近江八幡に(※近江兄弟社など)多くの企業や学校、医療施設を設立し、地域住民と永続的な関係を築いた。1958 年には近江八幡市初の名誉市民となり、彼が設立した多くの企業や団体が現在もその活動を続けている。旧八幡郵便局、池田町の洋館、ヴォーリズ夫妻の自宅だったヴォーリズ記念館など、旧市街地にはヴォーリズが設計した建物がいくつも残っている。

桜満開の週末土曜日だったが、人手はさほどでもなかった。雨予報だったが午前中は降らなかったので、八幡山ロープウェイにも乗ることができた。戦国期の豊臣秀次の町、江戸期の近江商人の町、明治期のヴォーリズの町という特徴が、今でも多く残っている魅力的な所だった。

尚、秀次の菩提寺である瑞泉寺は京都三条大橋のたもとにある。このお寺のできた経緯がHPに書かれている。

ここは江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所(当時鴨の河原は、今の河原町くらいまで広かったようです)。この場所で、今から400年前、悲しい事件が起こりました。瑞泉寺はそのことを伝えとどめるために建てられたお寺です。

文祿4年(1595年)8月2日の昼下がり、時の関白豊臣秀次公のご一族の公開処刑が、ここ三条河原でおこなわれました。秀次公は太閤秀吉公の甥ですが、実子に恵まれなかった秀吉公に請われて養子となり、二代目関白太政大臣を引き継いで、豊臣家の次世代をまかされた人。幼少の頃から数々の戦で武功をあげ、また戦乱の世で散逸した古典の収集にも力を注いだ人でもあります。関白を譲られる前は近江八幡の領主として善政を敷き、領民に慕われてもいました(現在でも秀次公を慕って瑞泉寺にお参りに来る近江八幡の人が沢山います)。

そんな秀次公が悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられました。その理由には諸説あります。一つは秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、秀次公は実子を盲愛する秀吉公からうとまれた、との説。また石田三成らの奸計によるものとする説、また秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説。そのいずれの要因も絡み合って起こった悲劇だったのかもしれません。

秀次公は文祿4年7月15日、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹。御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公のご一族が引き出されて、次々と処刑されていったのです。秀次公の御一族すなわち四人の若君と一人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人。三条大橋から多くの人が見守る中、一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれました。

その後、遺骸が投げ込まれ埋められた穴の跡に大きな塚が築かれました。頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を渡る人々への見せしめとしたのです。寺伝によれば、この塚の位置に現在の本堂は建てられたとされています(当時の「石びつ」は現在の境内にあるご一族の墓域に移されて、石塔の中央部に奉安されています)。

花曇八幡堀に舟走る

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 八幡堀(易)
  • 旧西川利右衛門家住宅(易)
  • ヴォーリズ建築(易)