よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して2年目突入!

京都の「丸に十の字」

千枚漬けの美味しい村上重本店

美味しい千枚漬が名物の村上重本店

2月の鹿児島旅行では「丸に十の字」の島津家の家紋をたくさん見た。京都でこの紋を使っているところが(知る限り)三つある。

島津製作所のHPには次の記載がある。

"丸に十の字"の社章は、島津源蔵が、島津家の家紋を商標として定めたことに由来します。島津源蔵の祖先は井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州兵庫県南西部)に住んでいました。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は領地の検分などに尽力し、その誠意に対する感謝の印として、義弘公から"島津の姓"と"丸に十の字(くつわ)の家紋"を贈られたと伝えられています。

京人形の島津については、HPを調べてみたが、家紋の経緯は分からなかった。

村上重については、同社が経営するホテルBijju のHPに次の逸話が紹介されていた。

なぜ京都なのに薩摩の紋なのかというと、薩摩の殿様にお漬物をお出ししたところたいそう気に入られて、この紋の使用を許されたからだそう。 

3月に入ると、今冬の千枚漬は終わりとなる。村上重の千枚漬は甘くないのが良い。個人的にはここの千枚漬がナンバーワンだ。次の冬まで我慢して待とう!

 

(追記)

もう一つ、丸十を発見。木屋町の「ちゃんこ逆鉾」さん!http://www.sakahoko.net/

 

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 島津製作所創業記念資料館(易)
  • 京都島津本店(易)
  • 村上重本店(易)

薩摩スチューデントのことを知る

西郷隆盛の生家に近い南洲橋から見る桜島

西郷隆盛の生家に近い南洲橋から見る桜島

鹿児島旅行の最終日DAY3は、下級武士の居住地であった加治屋町を中心に街中をブラブラした。ここからは、西郷隆盛を始め、幕末を動かした人材が多く輩出された。

観光施設の維新ふるさと館では、「薩摩スチューデント」の映画を観た。自分の地元である「長州ファイブ」は知っていたが、薩摩藩にも同様の動きがあったことを知る。簡単に説明すると次の通り。

1863年5月10日、萩藩(長州藩)は下関海峡を通航する外国船を次々に砲撃、攘夷を決行した。しかしその2日後には、5人の若い藩士を横浜港から密かに英国へ派遣した。初代内閣総理大臣になる伊藤博文、初代外務大臣になる井上馨工部卿になる山尾庸三、造幣局長になる遠藤謹助、鉄道庁長官になる井上勝の5人である。彼らは後に「長州ファイブ」と呼ばれた。

一方、1863年8月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、英国に留学生を派遣することを決める。4名の視察員と15名の留学生を送ることとなり、彼らは(長州ファイブの2年後の)1865年3月に薩摩を出発し、5月にロンドンに到着した。この中には、初代開成学校(後の東京大学)学長になる畠山義成サッポロビールを設立した村橋久成、初代文部大臣になる森有礼海軍兵学校長になる松村淳蔵生野銀山の再開発に尽くした朝倉盛明、「電気通信の父」と呼ばれる寺島宗則、初代東京国立博物館長になる町田久成、カリフォルニアに渡ってワイン王となる長沢鼎、「大阪の父」と呼ばれる五代友厚らがいた。彼らは後に「薩摩スチューデント」と呼ばれる。鹿児島中央駅前には、彼らの銅像が建てられている。

薩摩にしろ、長州にしろ、藩の利害ではなく、日本国の利害を考え、そして実際に行動に移した人達が幕末にいた。今考えると、これは凄いことだと思う。

鹿児島旅行の投稿はこれでおしまい。今回、鹿児島市内の公共交通機関では、交通系ICカードが使えなかったので、千円札の両替を頻繁にすることになった。次に来る時までに改善していてほしい。尚古集成館が再オープンした時には、また来たいと思う。

 

(2024/3/23 追記)長州ファイブの一人、井上勝について、江上剛氏が小説に書いている。長州藩の”藩命”を受けてイギリスに密航し、最新の鉄道技術を学ぶ。帰国後は新しい”日本国”のために、鉄道敷設に邁進する。また彼は間接的に商都大阪を守った人物でもある。とても面白い痛快ストーリーだ。東京駅丸の内駅前広場には、東京駅を見守るように彼の銅像が立っている。

 

 

島津斉彬の実験場

仙巌園庭園から見る桜島

仙巌園庭園から見る桜島

霧島神宮から鹿児島中央駅に戻ってきた後は、市内の観光スポットを巡るカゴシマシティビューバスに乗って、仙巌園(せんがんえん)に行った。

仙巌園は、1658年に島津家19代光久によって築かれた別邸で、桜島を借景とする庭園がとても美しい。この日は雨は降らなかったものの、あいにくの空模様で、桜島には雲が掛かっていた。

ここは庭園の美しさもさる事ながら、自分は隣地に、28代藩主島津斉彬が建設した近代工場群「集成館」に興味があった。尚古集成館のHPには、次のように書かれている。

日本が植民地化されるのではないかと危惧した斉彬は、日本が一つにまとまり、産業を興し豊かな国に生まれ変わらせ(富国)、国を守るため軍備を強化すべき(強兵)だと考えていた。藩主就任(1851年)後はこの考えを実現させるため、磯に「集成館」という工場群を築き、ここを中核として多岐にわたる事業(集成館事業)を推進した。軍事品を作るのみならず、薩摩切子・薩摩焼の制作やガス灯・写真・活版印刷の研究にも力を入れた彼の政策は「富国強兵」の先駆けであった。

耐震リニューアル工事のため、尚古集成館(島津家博物館)が閉館していたのは残念だったが、大砲を作るための溶鉱炉反射炉を、海外文献を頼りに試行錯誤しながら、この地に造り上げた当時の人達の熱量を強く感じた。2015年7月には、集成館を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産に登録されている。

 

天孫降臨神話の地

国宝霧島神宮は屋根が美しい

国宝霧島神宮は屋根が美しい

鹿児島旅行のDAY2は、霧島神宮に向かった。鹿児島中央駅から日豊本線の特急で霧島神宮駅まで約50分、駅前から路線バスに乗り約10分で霧島神宮に到着した。

霧島神宮は、天孫降臨の主人公である瓊瓊杵尊または瓊々杵命(ににぎのみこと)を祀る。坂本龍馬が新婚旅行で訪れたところでもある。神社本庁のHPでは、天孫降臨の神話を次のように伝えている。

天照大御神さまは、孫の瓊々杵命に三種の神器である八咫の鏡(やたのかがみ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授け、豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を高天原(たかまのはら)のようにすばらしい国にするため、天降るように命じました。

天孫降臨は、皇室の御先祖が高天原から天降り、この国を豊かにそして平和に治められていく様子を語り伝えるものです。瓊々杵命は天照大御神さまより、高天原の稲を授かり、豊葦原水穂国の人々の食物とするように命じられました。この神話を私達の祖先は稲作の起源として語り継いできました。ここからも稲が日本人にとっていかに大切で、神聖な食物であったのかを理解できましょう。

霧島神宮の創建は6世紀と伝えられ、最初は高千穂峰と御鉢(おはち)の間にある脊門丘(せとお)に建てられた。霧島山の噴火による消失と再建を繰り返し、500年以上前にいまの場所に移された。現在の社殿は、島津家第21代当主島津吉貴が、1715年に建立・寄進したもので、2022年に本殿・幣殿・拝殿が国宝に指定された。

路線バスの本数がとても少ないので要注意である。事前に調べておいたバスがダイヤ改正でなくなっていたため、今回現地に滞在出来たのは1時間余りだった。神宮の裏手の森の水路には温泉が湧き出ており、硫黄の臭いが漂っていた。次回は近くにある霧島温泉も訪ねてみたい。

鹿児島中央駅に戻る日豊本線の車窓からは、国分のソニーや隼人の京セラホテルが見えた。鹿児島も九州シリコンアイランドの重要な一画だ。

 

韓国陶工が作り出した薩摩焼

階段上に連なる窯が残っている

階段上に連なる窯が残っている

2月の3連休に、2泊3日で鹿児島に行って来た。伊丹から飛行機で行くつもりだったが、新幹線でも4時間と少しで行けることがわかったので、今回は新幹線を使ってみた。

最初に、鹿児島県日置市美山にある沈壽館(ちんじゅかん)窯を訪ねた。新幹線で鹿児島中央駅に着いた後、在来線(鹿児島本線)に乗り換えて、伊集院駅まで20分弱、そこからはタクシーを使った。

1598年、朝鮮(慶長)の役で薩摩軍島津義弘によって日本へ拉致された数十人の朝鮮陶工が「薩摩焼」の祖となった。その中の一人が初代沈当吉氏。現在の当主は15代目になる。沈壽館窯を訪ねたかったのは、お世話になった方から退職祝いにここの品を頂いたこと、そして司馬遼太郎さんが「故郷忘じがたく候」にここの物語を書いていたことが理由だ。

「故郷忘じがたく」といったかれらの故郷は、全羅北道南原(ナモン)城である。城の東に雲峰烏嶺をひかえ、南に三浪大江をめぐらし、北西の天に蘆嶺山脈を望んでいる。

かれらの言うのに、その山侍楽という丘にのぼればわれわれがやってきた東シナ海がみえる、その海の水路はるかかなたに朝鮮の山河が横たわっている、われわれは天運なく朝鮮の先祖の墓を捨ててこの国に連れられてきたが、しかしあの丘に立ち、祭壇を設け、先祖の祀りをすれば遥かに朝鮮の山河が感応し、かの国に眠る祖先の霊をなぐさめることができるであろう、かれらは涙をうかべつついうのである。

島津義弘はすでに晩年を迎えている。かれはこの島津家のあたらしい象徴をいよいよ醇化(じゅんか)するために苗代川を藩立工場にし専心製陶の指導につとめる一方、世間に対して薩摩焼の稀少性を保つために白薩摩に限り、島津家御用以外は焼くことを禁じた。

沈壽館窯は、静かな集落の中にあった。周辺にも薩摩焼の工房が散在している。もちろん現在でも薩摩焼の制作は続いており、沈壽館窯の敷地内には博物館やギャラリー、カフェが併設されている。お土産に15代のぐい呑みを買ってきたので、これからは晩酌が楽しみになる。

 

国宝建造物が8棟もある西本願寺

西本願寺飛雲閣の向こうに京都タワーが見える

西本願寺飛雲閣の向こうに京都タワーが見える

京都駅から歩いて行ける西本願寺には8棟の国宝建築物がある。この内、御影堂、阿弥陀堂、唐門は常時観ることができる。今回は飛雲閣(外観のみ)が特別公開されていた。残る4棟(書院、黒書院、伝廊、北能舞台)は、次の公開のチャンスを待ちたい。

もともと、本願寺は、京都大谷にあった親鸞の廟堂が発展したもの。織田信長と対立して1570年から石山戦争が起こるが、1580年に和議が成立した。浄土真宗本願寺派第11代宗主であった顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去(跡地には豊臣秀吉によって大阪城が建てられた)し、紀伊(和歌山)、和泉貝塚、そして天満(大阪府)に移った。1591年に、秀吉によって再び京都に帰ることとなり、六条堀川の現在地に移った。

阿弥陀堂と御影堂が最初に完成したのは、1592年のこと。同じ年に顕如上人が亡くなった後、長男である教如(きょうにょ)上人が跡を継いだが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状があったため、教如上人は一旦は隠退した。しかし、徳川家康に接近した教如上人は、1602年に家康から烏丸七条に寺地を寄進された。これが大谷派本願寺東本願寺)の起源であり、この時から本願寺は西と東に分かれた。

西本願寺はその後、地震や火災の被害を受ける。現在の御影堂は1636年に、阿弥陀堂は1760年にそれぞれ再建されたものである。御影堂は西本願寺の中で最も大きな建物で、親鸞が祀られている。本堂の阿弥陀堂には、本尊・阿弥陀如来が安置されている。御影堂と阿弥陀堂は廊下で繋がっているが、阿弥陀堂に向かって少し登っている。これは親鸞が本尊・阿弥陀如来を見上げる高さになるように設計されているらしい。

唐門は伏見城の遺構と伝えられる。飛雲閣も、1632年に聚楽第の一部が移築されたと言われている。左右対称ではない意匠が特徴的な飛雲閣は、金閣銀閣に並ぶ京都三名閣の一つとされている。

親鸞については、五木寛之さんが長編の物語を書いている。

親鸞は、西洞院松原辺りにあった屋敷で晩年を過ごした(1263年に90年の生涯を終えた地には諸説あるらしい)。そこは、ちょうど西本願寺東本願寺を結んだ中間地点から少し北に上ったところ、三角形の頂点に当たる。


□公共交通機関使用による訪問難易度

天皇家の菩提寺である御寺泉涌寺

歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿

歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿

舎利殿が特別公開中の泉涌寺に行ってきた。天井には狩野山雪が「雲龍図」を描いている。鳴き龍として知られる。赤い龍は珍しいそうだ。

泉涌寺は皇室の葬儀が行われたお寺。だから御寺(みてら)と言われる。1242年、87代四条天皇崩御の際に葬儀が営まれたのが最初だ。その後、南北朝安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に107代後陽成天皇から121代孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀が執り行われた。

泉涌寺の開山は1218年。月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)によって開かれた。現在は真言宗泉涌寺派の総本山。

井沢元彦さんの「逆説の日本史 2古代怨霊編」は、聖徳太子から桓武天皇までの天皇家の系統争いと遷都の歴史を書いている。

京都に泉涌寺という寺がある。別名「御寺」ともいい、明治以前は仏教を信仰していた天皇家が、事実上の菩提寺としていたところである。菩提寺というのは、これも言うまでもなく先祖代々の霊を祀るところだ。

ところが、驚くべきことに、この寺へ行くと天武以後称徳女帝までの八代七人(称徳は孝謙として二度即位しているから)の天皇の位牌がないのだ。位牌がないということは、つまり祀られていないということで、この七人の天皇は「無縁仏」として扱われていることになる。

これは本当の話である。泉涌寺が発行しているパンフレットすら、そのことを明記している。

称徳で天武系の子孫が絶えたこと。そして、彼女がなぜか急死したことである。天智系にとってこの「幸運」がなければ、皇位は決して戻ってこなかった。子孫断絶ーこれは古代においては最も忌むべき事態である。これは当時の人々の考え方から見れば、明らかに「奇蹟」であり天武系から見れば「タタリ」ということになる。タタリは非業の死を遂げた者が行なうものだ。

こう考えれば、当時莫大な資本を投下し世界最大の金銅仏まで建立した奈良の都が、なぜ捨てられたか。そして、なぜ当時の人々にとってまったくなじみのない山城(やましろ)の地に、平安京が造営されたかも、見えてくる。

もらったパンフレットにはこのような記述は見つからなかったが、霊明殿には、38代天智天皇、49代光仁天皇そして50代桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌(位牌)が祀られているようだ。50代桓武天皇の父が49代光仁天皇光仁天皇の父が38代天智天皇になる。

泉涌寺を見た後、泉涌寺別院の雲龍院を訪れた。南北朝時代の1372年、北朝4代後光厳天皇が開いた。ここには北朝4代後光厳天皇北朝5代後円融天皇北朝6代・100代後小松天皇、101代称光天皇の御尊牌が祀られている。

泉涌寺雲龍院は、東大路から泉涌寺道をずっと登っていった東山の山中にある。喧騒を離れた静かなところである。

□公共交通機関使用による訪問難易度