よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して2年目突入!

秀吉が作った三宝院庭園

国宝五重塔は951年に完成した京都府下最古の木造建造物

国宝五重塔は951年に完成した京都府下最古の木造建造物

醍醐の花見で有名な醍醐寺に行ってきた。今回で2度目だが、前回見ることができなかった三宝院表書院(国宝)を訪ねるのが目的だ。冬の週末、参拝客も限られていて、暖かい日差しの中でゆっくりと散策することができた。

醍醐寺の創建は874年と古い。開山は聖宝理源大師。上醍醐に湧き出ている泉の側に建てた隠棲場所が醍醐寺発祥の地となる。この泉の水が醍醐水で、この水の味がいわゆる「醍醐味」である(諸説あり)。913年には、60代醍醐天皇の帰依のもとで、上醍醐に薬師堂、五大堂が建てられた。

下醍醐には、926年に釈迦堂が、949年に法華三昧堂が、951年に五重塔が建てられたが、現存するのは五重塔のみである。釈迦堂があった場所には、現在、1600年に豊臣秀頼によって和歌山から移築された国宝の金堂がある。

三宝院は、1113年に醍醐寺第14代座主の勝覚僧正によって創建された。三宝院庭園は、1598年に行われた醍醐の花見のために、豊臣秀吉自らが設計したと言われている。庭の中央には、天下の名石と言われる「藤戸石」が置かれている。

次はやはり花見の時期に訪れてみたい。

□公共交通機関使用による訪問難易度

宝蔵寺で伊藤若冲を観る

河原町通六角を一筋入ったところにある宝蔵寺

河原町通六角を一筋入ったところにある宝蔵寺

伊藤若冲の墓は、宇治の石峰寺(せきほうじ)にある。

若冲が晩年を過ごした石峰寺 - よそもんが京都で暮らす

一方、宝蔵寺は若冲が生まれた伊藤家の菩薩寺である。伊藤家はこの寺の近くの高倉錦小路で青物問屋「桝屋」を営んでいた。「若冲は、寛延4年(1751)9月29日に父母の墓石、明和2年(1765)11月11日に末弟・宗寂の墓石を宝蔵寺に建立した」と寺のHPにある。

宝蔵寺は弘法大師空海の創立と伝えられるが、秀吉の寺町整理によって、1591年に現在地の裏寺町通に移転した。河原町通と新京極アーケードの間にあるこの辺りは、現在では繁華街の真ん中だ。1864年禁門の変により全焼、現在の本堂は1932年建立とのこと。

2/7〜2/12の期間、寺宝特別公開をしていたので行ってきた。展示の目玉は若冲の「竹の雄鶏図」と「髑髏図」。若冲の鶏はやはり目がかわいい。

若冲の生涯については、澤田瞳子さんの「若冲」がとても面白い。

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 宝蔵寺(易)

安倍龍太郎さんが描く「等伯」

前回の投稿で長谷川等伯について書いた。

長谷川等伯は七尾のひと - よそもんが京都で暮らす

長谷川等伯に関しては、安倍龍太郎さんが小説に書いている。

波瀾万丈の人生のどこまでが史実でどこからがフィクションかはよくわからない。狩野派との確執は相当深刻に描かれている。千利休等伯の人生に密接に絡んでくる。信長や秀吉が生きた時代の京都の姿を文章から感じることもできる。例えば

京の都は以前と変わらぬ活気を取りもどしているが、比叡山焼討ちによって大きく変ったことがふたつある。ひとつは賑わいの中心が鴨川東岸の祇園六波羅から、西岸の河原町に移ったことだ。

中でも栄えたのは、東海道の粟田口にあたる三条通から、伏見口になる五条通までである。大津方面からの物資をこの地に運び込むために、鴨川にいくつもの橋がかけられた。三条、四条、五条の大橋ばかりか、その間にも細い橋をわたした。

当時洛中に住むようになっていた宣教師たちはこれを見て、何と橋の多い町だと驚き、ポンテ町と呼ぶようになった。それが先斗町の名の由来になったという。

とても読み応えがある力作だった。

長谷川等伯は七尾のひと

本法寺には等伯像がある

本法寺には等伯像がある

元日に能登地震が発生した。能登半島の多くの寺社も被害を受けた。絵師の長谷川等伯は七尾の生まれである。長谷川等伯の略歴は、七尾商工会議所HPに詳しい。

長谷川等伯 等伯の一生 33歳頃まで

能登の時代(33歳頃まで)
天文8年(1539年)、能登国戦国大名畠山家家臣・奥村文之丞宗道の子として、七尾(小島町付近)に生まれ、幼名は又四郎といった。幼い頃に一族で染物屋を営む奥村文次を通じて染物屋・長谷川宗清の元へ養子となった。養父には絵の心得があり、絵を学び、また雪舟の弟子・等春からも学んだ。名を等春から1字を取り、長谷川信春と名乗り、その頃から仏画を描く絵師として徐々に有名になっていった。

京都・堺の時代(33歳~40歳頃)
等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻子を連れて上洛した。七尾の菩提寺本延寺が本法寺の末寺であったことから、上洛後等伯本法寺塔頭である教行院に住し、活動の第一歩を踏み出した。最初は狩野永徳の門で学ぶが、狩野家一門しか名を成せず、他の者は分業主義に徹して一道具に過ぎない師弟関係であることから狩野派を辞めた。人生の賭けでもあった、一大パフォーマンス、大徳寺三玄院の襖に強引に「山水図襖」を描くという事件を起こす。大徳寺の開山春屋宗園は禅寺寺院内に襖絵の必要を認めなかったが、等伯は宗園の不在時に訪れて描き上げた。これが評判を呼び、数々の寺院から絵の依頼を受けるようになった。

※現在、この「山水図襖」は、秀吉の正室ねねが晩年を過ごした高台寺圓徳院が所蔵する。

京都の時代(50歳代)
天正18年(1590年)仙洞御所障壁画制作が狩野永徳に阻止されたが、同年、狩野永徳の急死により、等伯にチャンスが回ってきた。秀吉の子、鶴松が亡くなり菩提寺・祥雲寺の建立、襖絵制作を等伯に依頼した。色彩と強靭な筆力、大画面としての雄大な構成力をもって長谷川派の総力を結集して制作した金碧障壁画である。その大胆で華麗な構図に秀吉は大変気に入り、等伯に知行200石を授ける。等伯のこの仕事を通じて名実ともに狩野派に対抗するまでになった。しかし、等伯に不幸が続きます。良き理解者であった千利休が自刃、等伯の片腕となって制作にあたった息子・久蔵が26歳の若さで亡くなった。

※「桜図」「楓図」。祥雲寺の地を家康から与えられた智積院が所蔵する。

京都の時代(60歳代〜)
等伯は、次々と大作を手掛け、妙心寺隣華院の襖に「山水図」、大徳寺塔頭の真珠庵の襖に「商山四晧図」「蜆子猪頭図」、南禅寺塔頭の天授庵に「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を描いた。本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えられる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及ぶ。


等伯は66歳の時「法橋」の位に就いた。また、等伯は67歳の時、法橋の次の位である「法眼」に就いた。慶長15年(1610年)徳川家康から招きを受け、江戸に赴く。その旅の途中で病を得、到着後2日目に病死した。享年72。

大徳寺三玄院、大徳寺三門(金毛閣)、本法寺智積院等伯と縁のある寺は多い。等伯の生涯を思い起こしながら訪ねたい。

□公共交通機関使用による訪問難易度

報道ほど激戦ではなかった?京都市長選2024

京都に移住して1年、初めての市長選挙に行ってきた。結果は与野党が相乗りで推薦する松井候補が「予想通り」当選した。

今回の有権者は113万8567人。前回市長選(2020/2)の有権者115万9615人より21048人減少した。前回は、投票率40.7%で、門川市長が21万票余りを獲得して4選を果たした。今回は、投票率は41.7%で、当選した松井候補は17万7454票を獲得した。

報道各社は、当選した松井候補と2位の福山候補の得票差が、前回(門川候補と福山候補)の4万9000票から1万6000票に縮少したことから、「大接戦」「猛追かわす」と見出しに書いた。しかし、次のグラフの通り、「非共産」候補と「共産」候補とで分けてみる(※ここでは共産候補と分類した福山候補は、自身では共産系候補ではないと言っている)と、それぞれの得票数は前回からほとんど変わっていない。つまり、共産票が伸びたわけでも、激戦となって投票率が高まったわけでもない。

前回との違いは、「非共産」の立候補者が2人から4人に増えたことだ。今回の得票数が3位だった村山候補(前回も立候補した)と同4位だった二之湯候補が得票数をもっと伸ばしていれば、2位の福山候補に漁夫の利が転がり込んだかもしれない? 

が、こういう時は、有権者に(「非共産」で共喰いしている場合ではないという)危機バネが自然と働くものだ。

いずれにしても、候補者には「税収の△△%を振り向ければ◯◯の公約は実現できます」というような言い方はしてほしくない。政策を行うための(地方の)税収は、(地域内の)法人と個人の所得に大きく負っている。法人も個人もしっかりと稼げる環境を作ることが大前提である。法人や個人がどれだけ頑張って納税しているのか、それがわかる市長であってほしいと思う。

 

最後に、地盤の弱い候補者はどう戦うべきであったのか? これについて感じたことを書いてみる。

1)マスコミの番組・紙面作りにはのらないこと

財政再建策は?」「オーバーツーリズム対策は?」「人口減少対策は?」といった横並びの質問にまじめに答えていた。誰も反対できないような模範解答を返しているだけでは、地盤を持つ候補者との間に明確な違いは生まれない。

2)地元益を明確に定義すること

政府の定める日本の国益(国家安全保障戦略)は次の通り。少なくとも、この国益を守るために政治は行われている。

①主権と独立を維持し、国民の生命・身体・財産の安全を確保する

②経済成長を通じてさらなる繁栄を実現する

③自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的な価値や国際法に基づく国際秩序を維持・擁護する

では、京都市の利益(地元益)とは何か? 候補者には「京都市が絶対に守らなければならないと考えること」を自分の言葉で語ってほしかった。今回の選挙ではここが全く見えなかった。というか、どの候補者も(マスコミにのせられて)足元の課題への対応に答えるだけだったように思う。だから、本当は何をしたい候補者なのかがさっぱりわからなかった。

3)地元益を最大化する方法を訴える

地元益が上手く定義できないと、それを最大化する方法も決まらない。

 

地盤を持つ候補者と同じ戦い方をしている限り、次回も風を起こすことはできないと思う。4年間しっかりと準備してほしい。

 

(追記)ダイアモンドオンラインの八幡和郎さんの分析です。

京都市長選の「真の勝者」は誰?“勝利の自民”も“善戦の共産”も喜べないワケ
八幡和郎: 評論家
経済・政治 DOL特別レポート
2024年2月15日 13:00
https://diamond.jp/articles/-/338805

楽焼の「楽」は聚楽第の「楽」

晴明神社がある場所の近くに千利休の屋敷があった

晴明神社がある場所の近くに千利休の屋敷があった

豊臣秀吉が京都の邸宅として1586年から造営を始めた聚楽第、その北東角辺りに千利休の屋敷も建設された。ここは、秀吉の逆鱗に触れた千利休が1591年に切腹した場所らしい。この物語は山本兼一さんが「利休にたずねよ」に書いている。

この屋敷は、陰陽師安倍晴明を祀る晴明神社の隣にあったようで、晴明神社の二の鳥居横には「千利休居土聚楽屋敷 趾」と刻まれた石碑が建っている。

因みに、秀吉は1591年に甥の秀次を関白に就任させ、聚楽第も秀次に譲ったが、秀頼が1593年に生まれると、1595年には秀次を自害に追い込んだ。この際に聚楽第は破壊されたようだ。

晴明神社から堀川通を渡って少し東に行ったところに楽家と楽美術館がある。千利休は、中国伝来の均整のとれた茶碗から、侘び茶に合う不完全の美を持つ茶碗を目指して、焼物師の初代長次郎に手づくねの茶碗を作らせた。聚楽第から取った「楽」の字は秀吉から授かったといわれる。

焼物のことはよくわからないが、秀吉・利休・長次郎、当時のことを想像しながら歩くのは楽しい。

□公共交通機関使用による訪問難易度

もともとは菅原道真の屋敷だった

「東風吹かば」の飛梅の地でもある

「東風吹かば」の飛梅の地でもある

受験シーズン真っ盛りなので、今回は菅大臣神社について。「かんだいじんじんじゃ」と読む。西洞院通高辻通に入り口がある。何度もこの前を通っているが、表通りからはこの奥に立派な社殿があるとは気付かなかった。

文字通り、菅原道真(835〜904年)を祀っている神社である。学問の神さまとされる菅原道真を祭神とする神社としては、太宰府天満宮北野天満宮が有名だが(この2社に、山口県防府天満宮と合わせて「日本三大天神」という)、元々この地には菅原道真の屋敷があったようで、生誕の地ともいわれる(※生まれたのは烏丸通下立売の菅原院天満宮神社とも?)。神社の創建年は不詳とのことだが、現在の本殿は1869年に下鴨神社から移築された。

この神社は、地図を手に目指して行かないと見つからないかもしれない。簡単に前を通り過ぎてしまう。四条烏丸からそんなに離れていないので、街歩きの途中に立ち寄ってみたい。

□公共交通機関使用による訪問難易度

  • 菅大臣神社(易)