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退職して京都に移住して2年目突入!

天皇家の菩提寺である御寺泉涌寺

歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿

歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿

舎利殿が特別公開中の泉涌寺に行ってきた。天井には狩野山雪が「雲龍図」を描いている。鳴き龍として知られる。赤い龍は珍しいそうだ。

泉涌寺は皇室の葬儀が行われたお寺。だから御寺(みてら)と言われる。1242年、87代四条天皇崩御の際に葬儀が営まれたのが最初だ。その後、南北朝安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に107代後陽成天皇から121代孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀が執り行われた。

泉涌寺の開山は1218年。月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)によって開かれた。現在は真言宗泉涌寺派の総本山。

井沢元彦さんの「逆説の日本史 2古代怨霊編」は、聖徳太子から桓武天皇までの天皇家の系統争いと遷都の歴史を書いている。

京都に泉涌寺という寺がある。別名「御寺」ともいい、明治以前は仏教を信仰していた天皇家が、事実上の菩提寺としていたところである。菩提寺というのは、これも言うまでもなく先祖代々の霊を祀るところだ。

ところが、驚くべきことに、この寺へ行くと天武以後称徳女帝までの八代七人(称徳は孝謙として二度即位しているから)の天皇の位牌がないのだ。位牌がないということは、つまり祀られていないということで、この七人の天皇は「無縁仏」として扱われていることになる。

これは本当の話である。泉涌寺が発行しているパンフレットすら、そのことを明記している。

称徳で天武系の子孫が絶えたこと。そして、彼女がなぜか急死したことである。天智系にとってこの「幸運」がなければ、皇位は決して戻ってこなかった。子孫断絶ーこれは古代においては最も忌むべき事態である。これは当時の人々の考え方から見れば、明らかに「奇蹟」であり天武系から見れば「タタリ」ということになる。タタリは非業の死を遂げた者が行なうものだ。

こう考えれば、当時莫大な資本を投下し世界最大の金銅仏まで建立した奈良の都が、なぜ捨てられたか。そして、なぜ当時の人々にとってまったくなじみのない山城(やましろ)の地に、平安京が造営されたかも、見えてくる。

もらったパンフレットにはこのような記述は見つからなかったが、霊明殿には、38代天智天皇、49代光仁天皇そして50代桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌(位牌)が祀られているようだ。50代桓武天皇の父が49代光仁天皇光仁天皇の父が38代天智天皇になる。

泉涌寺を見た後、泉涌寺別院の雲龍院を訪れた。南北朝時代の1372年、北朝4代後光厳天皇が開いた。ここには北朝4代後光厳天皇北朝5代後円融天皇北朝6代・100代後小松天皇、101代称光天皇の御尊牌が祀られている。

泉涌寺雲龍院は、東大路から泉涌寺道をずっと登っていった東山の山中にある。喧騒を離れた静かなところである。

□公共交通機関使用による訪問難易度