よそもんが京都で暮らす

退職して京都に移住して2年目突入!

御霊神社の裏手から寺町通りを下ル

楼門の傍には応仁の乱勃発地の碑がある

楼門の傍には応仁の乱勃発地の碑がある

地下鉄鞍馬口駅からすぐのところに御霊神社がある。平安遷都の際に、50代桓武天皇の勅願で、早良親王桓武天皇の弟)他八柱の御霊を祀ったのが始めだとされるが、この地には以前から出雲氏の氏寺・上出雲寺があり、元はその鎮守社であったとも言われる。また、ここは応仁の乱発端の場所でもある。

御霊神社の裏手から、鴨川方面に向かうと寺町通りに出会う。寺町通りについては、寺町京極商店街のHPに次のように書かれている。

平安京の頃、寺町通りは都の最東の通りで、「東京極大路」と呼ばれる道幅32メートルの大路だったとか。応仁の乱で荒廃したこの通りを再興したのは豊臣秀吉天正18年(1590)のことです。秀吉はここに寺院を集め、通りの名も「寺町通り」と改め、一大寺院街を造営しました。宗派を超えておよそ80ヶ寺とその塔頭が整然と立ち並ぶ様はまさに寺の町。江戸時代には書物や数珠、文庫、筆、薬などを商う商人や、紙や三味線などの職人たちがこの道沿いに集まり住み、現代の商店街の原形ができました。東海道五十三次の最終地点も「寺町三条」であったといいますから、京の寺町は全国にその名を馳せていたのです。

寺町の歴史 | 京都 寺町京極商店街

また、寺町通りの東、鴨川側は「御土居」として知られている。「御土居」については、次の2冊に説明がある。

京都はんなり暮らし 澤田瞳子

一般に京都人がイメージする<京都>は、天正19年(1591)に豊臣秀吉が築かせたお土居の内側の地区だ。お土居とは、京都中心部の東西約3キロ、南北約6.5キロのエリアを取り囲んで作られた堤。境は北は鷹ケ峰、南は九条、東は鴨川、西は紙屋川。現在の京都市のほんの一部であるこの内部だけが、近世以降 <洛中> と呼ばれ、京都と認識されていた。つまり嵯峨野・嵐山はもちろん、金閣寺清水寺などの有名寺院はすべて洛外、「京都の外」だったわけである。

秀吉の枷 下巻 加藤廣

「京の御土居の完成」がある。これは、秀吉が小田原城の「総構え」の堅窂さから得た体験を、主上様の御所にも生かそうという発想から起こした工事であった。ただ、当時はまだ「御士居」という言葉はない。ただの堤である。史書によれば、堤の規模は、高さ約3メートル、基底の幅約9メートル、周囲約22.5キロ。東は河原町・寺町の間を、賀茂川治いに、西はほぼ紙屋川の線、南は東寺の南・九条通、北は大徳寺の北方と不規則な長方形を描き、堤上に竹を植えた。以後、堤の内を洛中、外を洛外と区別するようになった。

寺町通りを少し下ルと、織田信長のお墓がある浄土宗阿弥陀寺がある。今出川大宮から、本能寺の変の3年後になる1585年に、豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転している。織田信長の遺体の在り方については、加藤廣さんが「秀吉の枷」や「明智左馬助の恋」で小説に描いている。

この辺りは静かな住宅地となっている。当時を思ってぶらぶらするのには、とても楽しいところだ。


□公共交通機関使用による訪問難易度