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薩摩スチューデントのことを知る

西郷隆盛の生家に近い南洲橋から見る桜島

西郷隆盛の生家に近い南洲橋から見る桜島

鹿児島旅行の最終日DAY3は、下級武士の居住地であった加治屋町を中心に街中をブラブラした。ここからは、西郷隆盛を始め、幕末を動かした人材が多く輩出された。

観光施設の維新ふるさと館では、「薩摩スチューデント」の映画を観た。自分の地元である「長州ファイブ」は知っていたが、薩摩藩にも同様の動きがあったことを知る。簡単に説明すると次の通り。

1863年5月10日、萩藩(長州藩)は下関海峡を通航する外国船を次々に砲撃、攘夷を決行した。しかしその2日後には、5人の若い藩士を横浜港から密かに英国へ派遣した。初代内閣総理大臣になる伊藤博文、初代外務大臣になる井上馨工部卿になる山尾庸三、造幣局長になる遠藤謹助、鉄道庁長官になる井上勝の5人である。彼らは後に「長州ファイブ」と呼ばれた。

一方、1863年8月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、英国に留学生を派遣することを決める。4名の視察員と15名の留学生を送ることとなり、彼らは(長州ファイブの2年後の)1865年3月に薩摩を出発し、5月にロンドンに到着した。この中には、初代開成学校(後の東京大学)学長になる畠山義成サッポロビールを設立した村橋久成、初代文部大臣になる森有礼海軍兵学校長になる松村淳蔵生野銀山の再開発に尽くした朝倉盛明、「電気通信の父」と呼ばれる寺島宗則、初代東京国立博物館長になる町田久成、カリフォルニアに渡ってワイン王となる長沢鼎、「大阪の父」と呼ばれる五代友厚らがいた。彼らは後に「薩摩スチューデント」と呼ばれる。鹿児島中央駅前には、彼らの銅像が建てられている。

薩摩にしろ、長州にしろ、藩の利害ではなく、日本国の利害を考え、そして実際に行動に移した人達が幕末にいた。今考えると、これは凄いことだと思う。

鹿児島旅行の投稿はこれでおしまい。今回、鹿児島市内の公共交通機関では、交通系ICカードが使えなかったので、千円札の両替を頻繁にすることになった。次に来る時までに改善していてほしい。尚古集成館が再オープンした時には、また来たいと思う。

 

(2024/3/23 追記)長州ファイブの一人、井上勝について、江上剛氏が小説に書いている。長州藩の”藩命”を受けてイギリスに密航し、最新の鉄道技術を学ぶ。帰国後は新しい”日本国”のために、鉄道敷設に邁進する。また彼は間接的に商都大阪を守った人物でもある。とても面白い痛快ストーリーだ。東京駅丸の内駅前広場には、東京駅を見守るように彼の銅像が立っている。