観光庁の多言語解説文データベースは、次のように解説している。
1086年頃から100年ちょっとの期間、それまでの伝統を破って日本の政治と経済を直接コントロールしようとする天皇が続けて現れた。彼らの成功の鍵は「退位」にあった。退位することにより、巨額の富を自由に蓄えることができるようになり、幅広い政治的な策謀に従事することが可能になった。退位には、物理的に都から離れることが伴った。京都の都の公式な境界線のすぐ外側に、彼らは広大な寺院と宮殿が一体となった施設を建設した。それは、住居でもあり、政治的な司令部でもあった。多くの寺院では、退位した天皇を神聖化し、その新たな、超越的な「法皇」としての永遠の地位を確認するための儀式が行われた。
https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554726.pdf
77代後白河法皇が院政をした時に住んだのが、京都の都の公式な境界線のすぐ外側に築いた「法住寺(ほうじゅうじ)」。三十三間堂は、この法住寺の敷地の中に、平清盛の資金提供を受けて1164年に建設された。1249年の火災で全焼したが、すぐに再建され、現在では1266年に建てられた建物が残っている。
正式名は蓮華王院。現在は天台宗妙法院門跡の境外仏堂である。公式パンフレットによると、仏師湛慶が造像した中尊を真ん中に左右各500体、合計1001体の千手観音像を合わせて本尊としているようだ。観音像の前列には、風神と雷神像、観音二十八部衆像が並び、これら全てが国宝に指定されている。
拝観は長い通路を上を見上げながら歩いていくが、上段の方の観音さまは暗くてよく見えない。全てが違う表情をされていると聞くが、これだけたくさん並んでいると違いがわからない。1001体の千手観音像には、1番から1001番までの番号が振られデータベース化されているが、そのデータベースを使用できるのは館内に設置された1台のPCだけであった。もっと手軽にこのデータベースを使えるといいのにと思う。また、堂内を真横から見られる場所がある。たくさんの仏像が整列している様は圧巻だ。
堂内は今でも荘厳な空気に包まれるが、これらの仏像が金色に輝いていた時代はさぞかしありがたく感じたのではないか。想像すると楽しくなる。何度でも行きたい場所だ。
□公共交通機関使用による訪問難易度
- 三十三間堂(易)